織田信長後継戦争


 
 
       軍事空白をついた明智光秀のクーデターにより織田信長と長男・信忠が命を落
      とした。織田家の前当主で実質的指導者であった信長と現当主で将来有望だった
      信忠の死で織田家は家督継承を巡って対立が生じる。誰が織田家の家督を継ぐの
      か。誰もが次期当主に誰が就任するか注目していた中、ただ一人だけ別の見方を
      している者がいた。謀反人・光秀を討ち取り、見事主君の仇を取った羽柴秀吉で
      ある。秀吉も継承者候補に名のりをあげるのだが、それは織田家の継承ではない。
      志半ばにして無念の死を遂げた信長の天下統一事業の継承である。
 
 
 
【清洲会議】 【動く秀吉、動かない勝家】 【賤ヶ岳】 【勝家敗走】 【北庄炎上】
    【清洲会議】     軍事力の空白を突いた明智光秀のクーデターは主君・織田信長とその長男・信忠を抹殺する    ことに成功したものの、羽柴筑前守秀吉が予想を超える早さで前線から戻ってきたことで求心    力を一挙に失い失敗した。それから14日後の天正10年6月27日、尾張国清洲城で織田家    の重臣達が集まって今後のことが話し合わされた。これが有名な清洲会議だが、会議は重臣数    名で行われた秘密会議だったため詳しい内容は不明で、今日伝えられている内容は当時流れて    いた噂を記したものや、会議の結果やその後の経緯を参考にして後世の人が想像して書物に記    したものである。     そのため会議の様子や出席者の面々は書物によって異なり、例えば『川角太閤記』では佐々    成政を除く大名・小名が清洲(書物には岐阜とあるが、これは間違えたのだろう)に参集した    とあるし、『武家事紀』は信長の遺児である北畠信雄・神戸信孝、重臣の柴田勝家・滝川一益    ・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉、『細川忠興軍功記』は先のメンバーに滝川を除いた面々で    会議が催されたとあるが、これらは後世に書かれたもので想像の域を出るものではない。これ    に対して同時期に書かれた『多門院日記』には人々の噂であるが、会議に参加したのは秀吉・    勝家・長秀・恒興・堀秀政の5人で信雄・信孝の兄弟は除外されていたと記されている。これ    は二人の仲が険悪で同席は無理と判断されたのと、重臣達に彼等を天下の政(まつりごと)に    関与させる気が無かったからである。信雄にしても信孝にしても信長の生前はさほどの地位を    与えられておらず、信雄が兄・信忠に次ぐ一門の地位を与えられたのと本能寺の変の直前で信    孝が四国遠征軍の総大将に任命されたぐらいである。信長の子と言っても家督を継いだ信忠と    その弟たちにははっきりした差がつけられていたのだ。     信長の息子達を除外して進められた会議だが、そのテーマは織田家の家督継承と本能寺の変    と山崎の合戦で生じた領主不在の領地の分配である。     家督を継ぐのはだいたい当主の嫡男である。この場合、信忠の嫡男・三法師が家督継承の最    有力候補になるが、この時はまだ幼児で大所帯となった織田領国を統治するのは不可能と思わ    れた。そこで勝家は三法師の叔父である信孝を次期当主に推薦した。信孝は才ある武将として    評価されており、山崎の合戦でも総大将を務めている。かつては兄・信雄の風下に立たされて    いたが、本能寺の変直前には信雄がせいぜい伊賀一国への侵攻作戦を任されただけなのに対し、    信孝は四国遠征軍の総大将に任命されている。     勝家は自分の意見がすんなり通ると思っていたようだが、秀吉がそれに異を唱えた。我らに    は三法師様という跡継ぎがおられるではないか。我ら家臣一同が結束して盛り立てれば何ら問    題はない。正論である。それに信孝の継承には問題があった。実は信孝は信雄よりも早く生ま    れていたのだが、母親の身分が低かったために三男とされているのだ。本当は次男なのをわざ    わざ三男とされている以上、信孝に家督継承の資格はないと言えるだろう。もっとも信長にし    たら信雄も家督継承の対象ではなかっただろうが。     そうした状況で無理に信孝を当主にすれば必ず信雄との間に内紛が勃発するであろう。それ    に対し、三法師であればそうした事態も起こらないはずである。丹羽長秀も秀吉の意見に賛成    した。だが、勝家はなかなかそれに同意しなかった。すると、秀吉が腹痛があると言って席を    外し、別室で横になった。秀吉がいなくなると長秀が勝家に秀吉のこれまでの功績と勝家の遅    れを指摘した。    「さっさとお戻りなされば光秀ごときが3人いても簡単に踏みつぶされておられましょうに」     つまり貴方は来るのが遅すぎたのだと長秀は言っているのだ。勝家はすっかり閉口して謝罪    し、三法師の家督継承に同意した。     家督継承が決まれば次は領地の配分である。すでに秀吉らで領土の割り当ては済まされてい    た。勝家はこれに文句を付けたが、弔い合戦に何の功績もない自分にも領地の加増があったの    でそれ以上は何も言わなかった。彼だけではない。信州と関東の領地を失った滝川一益にも5    万石の加増があった。これは秀吉に味方する諸将に恩賞をばらまく上でいい隠れ蓑となった。     諸将に配分された領地は、織田信雄に尾張全域、信孝には美濃全域、柴田勝家には近江長浜、    羽柴秀吉には山城・丹波の全域と河内の一部、丹羽長秀に近江高島・志賀、池田恒興には摂津    の一部、堀秀政に近江佐和山で、他に弔い合戦で功のあった蜂屋頼隆らにも知行あてがいとい    う形で加増があった。会議では他に信雄・信孝の三法師後見役への就任と、三法師の傅役に堀    秀政が着任することなどが決められた。     【動く秀吉、動かない勝家】     まがりなりにも発足した新体制だが、それが長く続くとは誰も思っていなかった。特に秀吉    は織田家を主君とするこの体制をいつまでも存続させる気はまったくなかった。だが、会議で    の決定を迅速かつ忠実に遂行したのはこの秀吉である。     会議の翌日の清洲を発った秀吉は長浜の引き渡し業務を済ませ、その次に新領の山城・丹波    に行き検地を実施し、会議で決められた京都への奉行派遣も決定した。それに対し他の諸将は    所領の引き渡しや受け取りを優先させて、その他のことは後回しにしたのである。柴田勝家は    秀吉と同じく京都への奉行派遣を義務づけられているがそれをしていないし、三法師を預かっ    ている織田信孝は安土修築が完了すればそこに三法師を移動させるという約束を守ろうとはし    なかった。信孝としては当主である三法師を手許に置いておくことで織田家中での影響力を高    めようと図ったのだろうが、秀吉にとってそれはいい攻撃理由にしかならなかった。信孝の態    度に見切りをつけた秀吉は以後は信孝を徴発するようになる。     これに対し、信孝は柴田勝家に接近して秀吉に対抗することにした。叔母のお市の方を勝家    に嫁がせることで勝家と信孝は秀吉打倒を誓った。これに滝川一益が加わる。     滝川一益は本能寺の変を聞きつけて急遽関東を引き揚げる途中で北条氏政の軍と交戦して大    敗を喫した。這々の体で逃げ戻ってきた一益に秀吉は冷淡で会議への出席を拒否した。本来な    ら清洲での会議に出席できる資格がある一益は秀吉の仕打ちに腹を立てた。会議の結果、一益    にも所領の加増があったのだが、秀吉に門前払いにされたという屈辱は拭えるものではなく自    然と一益は信孝・勝家に接近したのである。     勝家・信孝・一益組は秀吉の専横に不満を募らせているが、募らせているだけで何ら対抗策    を打とうとしなかった。勝家は秀吉に追求する口実を作られるのを避けるため自陣営の強化を    怠り、秀吉が長秀・秀政らを籠絡していくのを座して見ているだけだった。勝家がぐずぐずし    ている間に秀吉は織田家中をまとめ上げ、勝家サイド対しに圧倒的な優勢を作り上げたのであ    る。     状況が自分達に不利になっていくことを感じた勝家は堀秀政宛に家中で内紛をしている場合    でなく外圧に対抗することを優先させるべきではないかという書状を送った。甲斐と信濃・上    野は徳川と北条の草刈り場と化しているし、四国と北陸では敵対勢力が攻勢を強化していた。    特に北陸の上杉景勝は勝家にとって脅威だった。だが、今の時期にそのようなことを記した書    状を送ることは己の限界を秀吉に知らせるようなものだ。油断させるつもりならまだしも本気    でこんな書状を送るとは勝家はほとほと甘い男である。     勝家の限界を見切った秀吉はさらに彼等を追いつめるため、10月15日に京都の大徳寺で    信長の葬儀を行った。『總見院殿追善記(そうけんいんどのついぜんき)』によると、信長の    棺は金紗金襴で飾られ輿は軒の瓔珞や欄干の擬宝珠を金銀でこらし、八角の柱や八面の間も彩    色されていたらしい。遺骸の方は失われていたので沈香で彫像し、棺の中に納められた。棺の    前には池田輝政がつき、棺の後に秀吉の養嗣子で信長の四男・秀勝がついた。その後を信長・    八男の長麿が位牌を、さらにその後を秀吉が太刀を持って従った。この行列は2列3000人    に及んだという。行列は大徳寺から蓮台野の火葬場まで続き、沿道を秀吉の弟・秀長が3万の    兵で警固した。葬儀には池田恒興、細川藤孝らも参加、丹羽長秀は名代を立て、筒井順慶は警    固の兵を出した。この二日後、秀吉は位牌所總見院建立のため銀子1000枚と銭1万貫、米    500石を大徳寺に寄進している。     これに対し勝家はそれより前の9月11日に妙心寺でお市の方に百箇日忌の法事を営ませて    いるが、秀吉のように盛大とまではいかなかっただろう。信孝のもとに三法師がいるのにそれ    を利用することもしていない。幼くても三法師は織田家の当主である。信長の喪主に彼以上の    適任者がいるだろうか。実際に葬儀に参加できなくても名前だけで十分である。しかし、勝家    は三法師の政治的価値にまったく気づいてなかったのである。     勝家とは対照的に秀吉は信長傘下の武将の大半を結集することで自身が信長の後継者たらん    とすることを天下に示したのである。     大徳寺での葬儀で丹羽長秀と堀秀政が秀吉に傾斜を強めていることが明らかになると柴田領    を除く近江の諸将の大半が秀吉の傘下となった。こうしたことから自陣営の優勢を確認した秀    吉は織田信孝の老臣宛に信孝を非難する書状を送りつけた。自身の正当性を主張し、主筋であ    る信孝を非難する書状を見て信孝は怒り狂ったであろう。これは明らかに秀吉の挑発だが、信    孝にはこれを受けて立つことができなかった。     信孝は清洲での会議で美濃一国を領することになったが、美濃という国は大変治めにくい土    地であった。何しろ美濃は本能寺の変を機に争乱状態になっており、それがまだ続いている時    期に信孝は入国したのだ。国主となった信孝にはこの争乱を鎮める責務があるのだが、彼はそ    れを全うすることができなかった。争乱の当事者である森武蔵守長可は信長の横死で信濃から    帰国するとすぐに東美濃の制圧に乗り出した。この地域の国人衆は信長によって森氏に付属さ    せられたのだが、彼等はそれに不満を抱いていたようで信長が死ぬと森氏打倒に立ち上がった。    加茂郡米田城を手始めに可児郡大森城・同郡上恵土城が森勢に攻め落とされ、加茂郡の諸士を    結集した牛ヶ鼻陣地も一撃で粉砕された。     これに対し、信孝は長可を押さえるために重臣の斉藤利尭を加茂郡加治田城に入れたが、勢    いに乗る森勢はその加治田城まで攻略してしまう。さらに蜂屋城と上有知城も陥落し、信孝の    国主としての面目は丸つぶれとなった。長可は池田恒興の娘婿で舅が秀吉側についたので自分    ももしもの時は秀吉に味方するつもりでいた。そうした危険分子を信孝は領内に抱えてしまっ    たのだ。さらに長可への対応に追われたため西美濃への統制が疎かになってしまい、同地域で    最大の実力者である稲葉と氏家の両氏が日和見を決め込んでしまった。     秀吉から書状が送りつけられた頃はまだ信孝は美濃を完全に掌握しているとは到底言えない    状況であり、このままでは信孝の準備が整う前に秀吉に単独撃破される可能性があった。そこ    で滝川一益は勝家に秀吉との和睦を要請した。秀吉の書状を見る限り妥協の余地がないことは    一益も十分承知していたが、彼としては信孝の準備が完了するまでの時間が稼げればそれで良    かったのだろう。     だが、勝家はこの和睦に並々ならぬ意欲を見せ、前田利家・不破直光・金森長近の3名を交    渉役として派遣した。11月2日に和睦は成立したが秀吉にそれを守る気はさらさらなかった。    さらに前田ら交渉役の3人が秀吉の勢いを見せつけられ対秀吉戦に悲観的になってしまった。     それはさておき、わずかながら時間が確保できた勝家陣営は対秀吉戦の戦略を練り始めた。    織田家臣団の取り込みで秀吉に大きく遅れを取った以上、彼等には外部の勢力に頼るしか選択    肢はなかった。だが、それは外部勢力の介入を招くというデメリットがあり、勝家らは積極的    に行動を起こそうとはしなかった。唯一、信孝が徳川家康と毛利輝元に働きかけを始めたが、    両者とも信孝に味方する気はなかった。家康は嫌われ者の信雄とも親密な関係が維持できたほ    ど人付き合いがいい武将だが、そんな家康も信孝とは良い関係を築こうとはしなかった。家康    は兄の信雄がいるのに弟の信孝を擁立する勝家に嫌悪感を抱いていたし、何よりも彼は秀吉と    同様に信孝の限界を見切っていた。一方の毛利も「味方するかはどうかは戦が始まってどちら    が優勢か判明してから決めよう」などと呑気に考えていた。後に勝家は毛利が保護している足    利義昭を帰洛させるという条件で参戦を促したが、その頃にはもう時既に遅しであった。     貴重な時間さえも有効に使うことができなかった勝家陣営は準備不足のまま秀吉の攻撃を受    けることとなった。12月7日、和睦の成立で勝家が江越国境の兵力を引き揚げさせると、秀    吉はその隙をついて軍勢を率いて長浜城を包囲した。長浜城主・柴田勝豊はかつては勝家の養    嗣子だったが、この頃は勝家に実子が生まれたため彼と疎遠になり、また佐久間盛政と犬猿の    仲だったことから戦わずに投降した。といってもすぐに降伏したのでは世間体が悪いので15    日頃まで形ばかりの籠城を続けた。     長浜城は柴田勢にとって前線基地となる重要拠点である。その重要な城をなぜ勝豊に任せた    のか理解に苦しむ。自分と勝豊の間が疎遠になっていることぐらい察していたはずである。佐    久間盛政か柴田勝政を城主にしておけばあのように短期で陥落することもなかったろうし、そ    れが無理なら国境の兵力を撤退させるべきではなかった。なぜ、勝家はそれをしなかったのか。    それは越後の上杉勢に備えるためである。勝家は上杉の来襲を極度に警戒していたのだ。確か    に半年前まで上杉と戦ってきた勝家にとって上杉は脅威であろうが、あくまで主敵は秀吉であ    るはずだ。多少のリスクを背負っても秀吉との戦いに全力を傾けるべきだった。本能寺の変後    の行動でも勝家は上杉と一向一揆の残党を警戒する余り軍勢の出発が遅れ、それとは対照的に    多少のリスクを無視してでも明智光秀討伐に意識を集中させた秀吉に弔い合戦で大きな遅れを    取っている。勝家には秀吉や信長のような大胆さを持ち合わせていなかった。これが勝家と秀    吉の大きな違いであり、二人の命運を分ける重要な要素となったのだ。     かつての居城を奪回した秀吉は16日に美濃大垣城に入り、織田信孝の居城・岐阜城を包囲    した。すでに美濃衆の大半が秀吉に寝返っており、そうした者を含めて包囲軍は3万に達した    という。外部との連携が取れない岐阜城は脆く、信孝は20日に抑留していた三法師を差しだ    し、人質を出して降伏した。     長浜城、岐阜城と労せずに陥落させた秀吉軍だったが、伊勢方面はそうたやすくはなかった。    信孝のあまりもの不甲斐なさに呆れた滝川一益は独自に行動することを決意、信孝を裏切った    関万鉄斎の亀山城と岡本良勝の峯城を攻略し、さらに国府と関の両城に兵を入れ鈴鹿方面の防    備を強化した。     この一益の予想外の健闘に対し秀吉は天正11年2月10日、土岐多羅越え・大君ヶ畑越え    ・安楽越えの3方から一斉に北伊勢に攻め込んだ。秀吉軍の総数は75,000で秀吉自身は    3万余の軍勢を率いて安楽越えを南下、12日に一益の甥・滝川儀大夫が城将の峯城を包囲し    ついで16日に亀山・国府・関の諸城も攻めた。一方、一益が籠もる桑名城を攻めたのは大君    ヶ畑越えのコースを取った秀吉の甥・三好秀次、中村一氏らの2万の軍勢で16日に桑名城を    攻撃したが、一益も配下の諸将も城を固く守って敵の攻撃を耐え続けた。一益は後詰が不可能    だとわかっていたためこれらの城には適当に開城するように申しつけていたが、一益の家老・    佐治新介の亀山城が開城したのは3月3日、滝川儀大夫の峯城が開城したのは4月12日で、    どちらも限界ギリギリまで抗戦しての開城だった。この間に柴田勢は無事に近江に進出するこ    とができた。信孝はまったくの役立たずだったが、滝川勢はそれを補ってあまりある健闘で時    間を稼ぐことに成功したのである。     秀吉がこの時期に軍事行動を起こしたのは越前勢が雪で身動きができない隙をつくためだ。    柴田・信孝・滝川が一斉に蜂起すれば秀吉としても厄介である。そこで越前の道が豪雪で遮断    されている間に信孝と一益を屈服させようとしたのだ。もし、三者が一斉蜂起して戦闘が長期    化すれば外部勢力の介入を招く恐れがある。事実、土佐の長宗我部元親と紀州の国人衆は勝家    に呼応する動きを見せている。また、事態の推移によっては中立を決め込んでいる徳川と毛利    もどうなるかわからない。     だが、それはあくまでも仮定であり現時点で秀吉が焦る事の程ではない。それ以上に焦って    いたのが勝家である。長浜城と岐阜城が簡単に陥ち、一益も大軍で攻められている。北伊勢戦    線の状況は詳しくわからないが、このままでは外線戦略の効果が期待できる前に各個に撃破さ    れてしまうだろう。当初半月先だった出陣の予定を急遽繰り上げて2月28日に勝家は挙兵を    決意した。ちなみにこの年は1月と2月の間に閏月があったので2月28日は現在の4月20    日にあたる。     前田利長らの府中衆と佐久間盛政以下の加賀衆はほぼ同時に近江に入り、3月8日に木之本    周辺などを焼き払った後、9日夕刻に木之本の北方6q地点に布陣した。続いて能登・越中衆    を率いた前田利家と9日に北庄を発した勝家が到着し、12日までに柴田勢は全軍が近江柳ヶ    瀬周辺に展開を終えた。その数2万。これはかつて朝倉義景の軍勢が同地に展開させた軍勢の    数とほぼ同数であり、やや少なく感じるがこれは北陸が一向一揆狩りの後遺症で動員力が低下    していたのと上杉勢に備えるために佐々成政を越中に残していたためである。     【賤ヶ岳】     柴田勢の近江侵入を知った秀吉は峯城の包囲を織田信雄に任せると、伊勢攻めの軍勢の大半    を率いて近江に向かった。3月17日に木之本まで進出した秀吉は陣城の構築を開始した。秀    吉勢の布陣は、木之本北方約6q、天神山東方1qほどの地点に位置する左祢山砦に堀秀政隊    5000、これは北国街道の監視が任務で第一線陣地の最右翼となる。そこから余呉川を挟ん    で南西1q地点に堂木山砦、尾根続きに南西1q弱の所に神明山砦があり、北国街道を堂木山    と左祢山で封鎖する中之郷に先に佐久間盛政らによって天神山砦から追い出された長浜衆が配    置された。さらに督戦として堂木山と神明山に木村隼人正が入った。その堂木山から南へ2q    ほどにある大岩山に中川背兵衛清秀麾下の摂津茨木衆、その北の岩崎山に高山右近が布陣、余    呉湖西岸の尾根と大岩山の尾根がぶつかる頂上付近の賤ヶ岳に桑山重晴が入り、これら第二線    陣地を統括指揮するため秀吉の弟・羽柴秀長が15,000を率いて北国街道の東側、木之本    の裏山にあたる田上山砦に入った。秀吉の本陣は木之本の集落に置かれたようだが、そこから    では主戦場まで見通せないため戦闘指揮は田上山で行われたようだ。秀吉軍の総数は琵琶湖東    岸の軍勢と西岸の梅津に布陣した丹羽長秀の軍勢を含めて約5万、その内秀吉自前の兵が約3    万で、なぜこれだけの数にしかならないのかは各地への押さえに兵を分散させていたからだ。     対する柴田勢は内中尾山に勝家の本隊7000、右翼の要として行市山に佐久間盛政隊40    00、行市山から南東に延びる尾根筋に築かれた砦群に寄騎の諸将が展開して第一線を形成し    た。あまり奥行きのある陣容ではないが、高所を選りすぐって陣取ったため戦線の薄さを個々    の砦の地形でカバーしていた。さらに塩津谷方面にも砦を築き、越前に直接通じる街道を完全    に封鎖していた。ただ欠点なのは本陣の内中尾山が最前線から5qも離れていたため戦況の変    化に即座に対応できない恐れがあることだ。     両軍の基本戦略は勝家が長期持久で秀吉が短期決戦である。柴田勢は近江に秀吉の本隊を引    き付けていれば一益の負担も軽くなるだろうし、信孝の再起も不可能ではない。さらに状況如    何によっては外部勢力の参戦も期待できる。     一方、秀吉は外部勢力に頼るという選択肢は有り得ない。現時点で勝家陣営に優勢なのに外    部勢力に頼ることは味方する与党への不信と受け取れかねない。この時点での秀吉は織田家の    家臣という身分であり、丹羽長秀も池田恒興も堀秀政も秀吉に追随してはいるが彼の家臣では    ないのだ。秀吉としても彼等の機嫌を損ねることは避けたい筈なので外部勢力に頼るという選    択肢は想像の埒外なのだ。ちなみに秀吉側として参戦する可能性があるのは越後の上杉景勝で    実際秀吉も越中・能登の切り取り放題を条件に参戦を要請している。越後勢が動けば勝家は越    中の守りにさらに兵を割かなくてはならなくなる。そうすれば勝家の打倒が容易になり、諸将    の理解も得られやすい。だが、上杉勢は信濃の完全制圧を目論む徳川勢を警戒しなければなら    なかったし、領内にも反対勢力が存在するので領外に出ることは不可能であった。     ついに両軍は対峙したが、秀吉も勝家も迂闊に攻めようとはしなかった。お互い嫌い合って    いたが、その力量は認めていた。迂闊に攻め込めば敵の術中にはまる恐れがある。戦線は膠着    状態となった。     戦闘が長期化すると見た秀吉は3月27日に前線から下がって長浜城に入った。伊勢では勢    いを盛り返した滝川一益に信雄が翻弄されていたし、美濃では信孝が再挙していた。そして、    賤ヶ岳でも長浜衆の離反が噂されていた。このままじっとしていたら秀吉は3方から包囲され    てしまうかも知れない。     だが、秀吉はこの状況を不利ではなく好機と捉えた。秀吉は信孝を討つため彼が差し出して    いた人質を処刑すると長浜城を出て、4月16日に美濃大垣城に入った。信孝も再挙すれば秀    吉が攻めてくることぐらい想像しており、河川が氾濫しやすいこの梅雨時に再挙したのだ。事    実、揖斐川の氾濫で秀吉は足止めを余儀なくされた。しかし、それは秀吉の想定内だった。彼    の狙いは信孝ではなく、自分の不在を知って柴田勢が動き出すことにあったのだ。勝家は自分    の狙いに気づくだろうが、その配下もそうとは限らない。特に佐久間盛政のような血気にはや    る猛将は出撃を強硬に主張するに違いない。それに勝家が押し切られればしめたものだと秀吉    は考えていた。そして、事態は秀吉の思惑どおりに動くのだった。     秀吉が大垣に移動したことは寝返った山路正国によって柴田勢にも伝えられた。さらに山路    は大岩山砦が未完成で将兵も油断しているとも伝えた。それを聞いた佐久間盛政は欣喜して、    偵察でそのことを確認すると4月19日に勝家に出撃許可を求めた。それに対し勝家は大岩山    は敵の第二線で包囲撃滅される危険が高いとしてそれを却下した。勝家は山崎の合戦での秀吉    の驚異的な大返しで苦酸を嘗めたという苦い記憶があり、今回も秀吉がそれを狙っているので    はないかという危惧があった。     そんな勝家も盛政の執拗な説得に折れ、ついに大岩山攻略後は速やかに撤収するという条件    で出撃を認めた。奇襲部隊は盛政を主将とする8000でこれを前田利家・利長・柴田勝政ら    が支援すると決まった。作戦参加総数は17,000、柴田勢の大半を投入しての作戦である。     4月20日午前1時、行動を開始した奇襲部隊は夜陰に乗じて敵に気づかれることなく大岩    山に接近した。空が明るくなり始めた頃、不破勝光を先鋒とする奇襲部隊は大喚声をあげて大    岩山に殺到した。大岩山を守っていた中川清秀の軍勢はわずか1000、しかも山路の情報ど    おり油断していたため直前まで敵の接近に気づかなかった。それでも兵を配置する時間はあっ    た。地の利を利用して鉄砲と槍で応戦する中川隊に5000の攻撃隊は苦戦を強いられ、一時    は湖岸まで押し返された。その間に清秀は賤ヶ岳の桑山重晴と岩崎山の高山右近に救援を求め    る使者を送ったが、二人とも砦を放棄して逃げるよう勧めるだけで救援の兵を出そうとはしな    かった。孤立した中川隊は午前9時頃に佐久間勢が火を放つと、戦意を喪失して次々と倒れて    いった。それでも清秀は兵を叱咤して奮戦するが、ついに力尽きて部下共々玉砕し砦は午前1    0時頃に陥落した。     大岩山の陥落を知った高山勢は戦わずして岩崎山を放棄して羽柴秀長の陣に合流して、桑山    重晴も日没後に砦を明け渡すと約束した。二人ともこのことで秀吉から処罰されていないので    砦の陥落は大した打撃ではなかったろう。逃げ遅れた中川隊は不運であった。     事前の約束ではこの時点で奇襲部隊の任務は終わり、撤収することになっていた。しかし、    大岩山だけでなく岩崎山も陥落させたことで調子に乗った盛政は神明山と堂木山、中之郷を守    る長浜衆を粉砕して一気に秀長と堀秀政の軍勢と雌雄を決しようと勝家に出撃を求めた。だが、    秀長と秀政の軍勢は2万でこれを打ち破るのは不可能であると判断した勝家は盛政に当初の予    定どおり撤収するよう命じた。しかし、盛政は命令を無視して現地に居座り続けた。     【勝家敗走】     大岩山の陥落はその日の正午過ぎには秀吉の耳に入っていた。中川隊の玉砕は秀吉にとって    も意外だったが、それでも秀吉は慌てることなく午後4時頃まで大垣に留まった。事態が思い    通りに推移したことで秀吉はほくそ笑んだであろう。秀吉は15,000の兵を率いて大垣を    出陣した。その行軍速度は平均時速6.5qで、柴田勢の3倍以上のスピードであった。     なぜこれほどのスピードで何時間も走れたかというと、木之本〜岐阜間の道は元々内線を想    定していた秀吉によって大量の米や替え馬などが備蓄されていたからである。秀吉は沿道の農    民から米を相場以上の金額で買い上げており、それを握り飯にして兵に与えるように命令して    いた。長時間の移動で疲労した兵は配られた握り飯と民衆からの激励で再び元気を取り戻し走    り出すのである。また、篝火を焚かせることで夜間を走る兵達が道に迷うことを防いだ。騎馬    武者も馬が疲れた頃に替え馬が用意されているのでそれに乗り換え移動が遅れないようにした。     木之本に到着した秀吉は状況を確認した。予想通り佐久間勢は大岩山に居座っており、孤立    していた。秀吉は佐久間勢が撤収する前に攻撃命令を発した。攻撃隊は3隊、右翼は東野山の    堀秀政隊5000、中央は田上山の羽柴秀長隊15,000、左翼が秀吉の15,000であ    る。まだ、戦闘態勢は整っていなかったが、佐久間勢が撤収する動きを見せたので予定を繰り    上げたのだ。     一方の盛政は北国脇往還にズラリと並ぶ松明の火と木之本付近から響いてくる人馬の喚声に    色を失っていた。秀吉を甘く見たことを後悔する盛政だが、急いで撤収しなければ自分だけで    なく勝家をも危険にさらしてしまう。翌21日午前0時、盛政は飯ノ浦切り通しの柴田勝政に    援護を求めると共に敵に悟られないように撤収を開始した。     佐久間勢の撤収を察知した秀吉軍はすぐさま攻撃を開始した。だが、準備不足のまま追撃に    入った上に戦巧者の盛政の巧みな迎撃で思うように打撃を与えられなかった。佐久間勢は樹陰    に鉄砲隊を隠して秀吉軍が迫ってきたところを銃撃し、すかさず槍隊と抜刀隊が斬りかかって    さっと撤退し、態勢を立て直した敵にまたも鉄砲隊が銃撃するといった具合に佐久間勢はほぼ    無傷で権現坂まで後退した。     山上から戦況を眺めていた秀吉は攻撃目標を柴田勝政に切り替えた。午前8時過ぎ、秀吉軍    は勝政隊への攻撃を開始した。勝政は必死に応戦するが、矢弾を惜しまずに雨あられと撃ちか    けてくる秀吉軍に徐々に隊伍を崩していき、やがて大混乱となって兵達が敗走を始めた。勝政    は踏み止まるように命じるが、一度崩れた隊列は元には戻らない。勝政も諦めて佐久間勢との    合流を目指した。この時に勝政隊との戦いで活躍したのが「賤ヶ岳の七本槍」である。     そのころ、権現坂まで後退して勝政勢の合流を待っていた盛政は勝政が危ういのを見て、再    び余呉湖畔に打って出た。拝郷家嘉、山路正国ら盛政配下の武将は部下を叱咤激励しつつ戦場    に躍り出た。特に拝郷は勇猛な武将でその気迫に秀吉軍の将兵もたじろんだ。しかし、拝郷も    七本槍に攻撃されて討死、山路正国も清水谷で憤死した。柴田勝政も戦死を遂げていた。     賤ヶ岳から湖畔にかけて双方の戦死者が累々とし、余呉湖の水を赤く染めていった。柴田勝    政は戦死し、佐久間勢も犠牲が大きくなりつつあった。もはや戦況の行方は明らかだったが、    それでも盛政は諦めなかった。勝家の本陣まで撤収すればまだ望みがあった。だが、その望み    は思わぬ形で裏切られた。     盛政が立つ権現坂の背後にある茂山には前田利家の軍2,000が布陣していた。盛政はこ    の前田勢の支援を期待していたのだが、前田勢は突如兵を引き揚げ始めたのだ。前田勢だけで    なく金森勢も不破勢も撤退を始めた。前田勢の撤退でその方面に拘束されていた部隊も佐久間    隊の攻撃に参加した。さしもの佐久間勢もこれには耐えられずついに敗走した。     佐久間勢の潰走で勝家の命運は尽きた。早朝には7,000いた将兵も今では3,000に    激減していた。覚悟を決めた勝家は秀吉と一戦交えんとした。かつて鬼柴田と呼ばれた勝家で    ある。このまま敗走するのを潔しとしなかった。だが、重臣達の必死の説得で堀秀政隊に突進    して散々に斬りまくると戦場を後にした。その時に馬標を毛受勝照に与えている。馬標を受け    取った勝照は300の兵と共に林谷山の砦に立て籠もった。勝家の身代わりとなって敵を引き    付けるためである。そうとは知らない秀吉軍は砦に勝家がいるものとおもい、敵の総大将の首    を討たんと突進していった。勝照は自分を柴田修理と名乗り奮戦、寄せ手を何度も押し返すが、    時間の経過と共に部下の数も減っていき、ついには10余人にまでなっていた。最期の時が来    たと悟った勝照は残った部下と共に最後の突撃を敢行して壮絶な戦死を遂げた。時に正午12    時、太陽が天高く昇った頃に織田家の主導権を賭けた戦いは羽柴秀吉の圧勝に幕を降ろした。     一方、北を目指して敗走した勝家は途中で府中城に立ち寄った。府中城は前田利長の城で先    に戦場を離脱した前田利家が入っていた。大敗のきっかけをつくった利家に勝家は文句の一つ    も言いたかったろうが、この期に及んでは男らしくないと思ったのかそのことには触れずに今    まで自分に従ってきたことの礼を述べ、今後は秀吉に従うように勧めると湯漬けを所望して去    っていた。     【北庄炎上】     柴田勢を敗走させた秀吉軍はすぐさま追撃に移った。大打撃を被った柴田勢はそれを押し止    めることはできず、越前は羽柴勢に蹂躙されていった。そして4月23日、北庄城は秀吉軍に    包囲された。勝家助命を具申する武将もいたが、秀吉は「勝家助命など庭先に虎を放し飼いす    るようなものだ」と言って退けた。     北庄城の守備兵は3,000、広大な城を守るには少なすぎるため勝家は外郭防衛を放棄し    た。戦闘開始に先立って勝家は妻と3人の娘に城を出るよう求めた。妻と娘は信長の血縁であ    り、秀吉も粗末にはしないだろう。だが、妻のお市の方は自分も自害すると言って娘だけを秀    吉の元に行かせた。     娘を預かった秀吉は城への攻撃を命令した。城兵は奮戦するが、圧倒的兵力差の前に二の丸    も三の丸も陥落した。残るは本丸だが日が暮れたため戦闘は一時中断した。その日の午後、勝    家は最後の宴を催した。それはまるで勝ち戦を祝うかのような盛大な宴だったという。     翌朝4時頃、秀吉軍は攻撃を再開した。激戦の末、秀吉軍は本丸に突入し、勝家は覚悟を決    めた。秀吉が各地の大名に伝えた書面によると、勝家は天守に昇ると眼下に居並ぶ秀吉軍の将    兵に「腹の斬り様をじっくり見分して後々の手本とせよ」と叫び、妻を刺殺すると壮絶な最期    を遂げた。家臣80余名もそれに続いた。心ある侍はそれを見て涙を流し、鎧の裾を濡らした    という。城は炎に包まれ落城し、秀吉の覇権を阻む者はいなくなった。     勝家敗死後も信孝と一益は抵抗を続けていたが、勝家敗北が伝えられると信孝配下の将兵達    は次々と脱走して残ったのは27人だけとなった。信孝が家臣に去られたのは本能寺の変直後    からこれで3度目である。どうもこの人は能力はあるのだが、人を引き付ける能力だけは欠け    ていたようだ。それも無理無い。彼のように苦労知らずの若君が己の才覚と魅力だけで人々を    引き付けることなど難しいことなのだ。そのことに気づかなかった事に信孝の不幸があった。    が、それは信孝に限ったことではない。他ならぬ秀吉の息子とその取り巻き達も先代の息子と    いうだけで諸将が従うものと勘違いした末に滅亡している。彼等と信孝の違いと言えば、彼等    ほどに信孝は潔くなかったことだろう。助命を条件に信孝は城を兄・信雄に明け渡した。だが、    信雄は立場の弱い者に慈悲をかけるような人間ではない。信孝は5月2日に尾張知多郡野間の    大御堂で自害を強要された。自決に際し信孝は次のような歌を詠んでいる。
むかしより主をばうつみの野間なれば、恨みを見よや羽柴筑前
    野間はかつて平治の戦に敗れた源義朝が敗走途中で家臣の長田忠致に暗殺された地である。    信孝与党の掃討は15日まで続き、逐われた者は徳川家康を頼って三河に落ち延びた。     さて、勝家と信孝の死で孤立した一益だったが、それでも彼は長島城に籠もって抵抗を続け    た。彼が降伏したのはなんと7月になってからだった。恐るべき執念である。ここまでの長期    籠城が可能だったのは、長島城が木曽川・揖斐川・長良川の3つの大河に囲まれ完全な包囲が    できなかったためである。     だが、さしもの一益も抗戦の意思が萎えはじめ武命を捨てる覚悟で秀吉に降伏した。そんな    一益に秀吉は「貴殿が武辺の意地を捨てたことで、貴殿と家の子郎党が救われた。命があって    こそ武勇も栄達も成り立つ。ご安心なされ、筑前は苦労人でござる。決して悪いようにはいた    さぬ」と言って一益を安心させ感動させた。かつて一益を利用価値のない落ちぶれた老将と見    ていた秀吉だったが、勝家よりも執拗に抵抗を続けたことでその見方を変えたようだ。秀吉は    一益の本領を安堵すると宣言した。以後、一益が秀吉に逆らうことは二度となかった。     勝家の滅亡で秀吉は織田家の後継者争いに終止符を打った。あくまでも自分を織田家の家老    に位置づけていた勝家に対し、秀吉は自分こそが信長の天下取りの偉業を受け継ぐ後継者と考    えていた。彼にとって三法師は織田家の家督に過ぎない。織田家の家督であればその血筋の者    が継承すればよい。だが、信長の天下覇業は血筋ではなく実力ある者が継承すべきである。そ    れができるのは実力のうえでも意識のうえでも秀吉しかいなかったのである。
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