降伏か本土決戦か岐路に立たされたトップの決断
昭和20年夏の敗戦
発足当時の鈴木内閣主要閣僚と陸海軍主要幹部一覧(1945年4月7日)
総理大臣 鈴木貫太郎
外務大臣 東郷茂徳
駐独大使 大島浩
駐ソ大使 佐藤尚武
陸軍大臣 阿南惟幾
陸軍次官 柴山兼四郎
軍務局長 吉積正雄
軍務課長 永井八津次
軍事課長 二神力
人事局長 額田担
兵務局長 那須義雄
航空本部長 寺本熊市
兵器行政本部長 菅晴次
海軍大臣 米内光政
海軍次官 井上成美
教育局長 大西新蔵
軍需局長 鍋島茂明
軍務局長 多田武雄
第1課長 山本善雄
第2課長 末沢慶政
第3課長 浜田祐生
人事局長 三戸寿
航空本部長 戸塚道太郎
軍需大臣 豊田貞次郎
国務大臣 左近司政三
情報局総裁 下村宏
内閣書記官長 迫水久常
参謀総長 梅津美治郎
参謀次長 河辺虎四郎
第1部長 宮崎周一
作戦課長 天野正一
第2部長 有末精三
第3部長 磯矢伍郎
軍令部総長 及川古志郎
軍令部次長 小沢治三郎
第1部長 富岡定俊
第1課長 田口太郎
第12課長 松永敬介
第2部長 黒島亀人
第3課長 山岡三子夫
第4課長 斉藤昇
第3部長 大野竹二
第5課長 竹内馨
第6課長 小別当惣三
第7課長 山口捨次
第8課長 入江籌直
第4部長 野村留吉
第9課長 鮫島素直
第10課長 山崎規矩夫
関東軍総司令官 山田乙三
総参謀長 秦彦三郎
支那派遣軍総司令官 岡村寧次
総参謀長 小林浅三郎
南方軍総司令官 寺内寿一
総参謀長 沼田多稼蔵
第1総軍司令官 杉山元
参謀長 須藤栄之助
第2総軍司令官 畑俊六
参謀長 岡崎清三郎
航空総軍司令官 河辺正三
参謀長 田副登
連合艦隊司令長官 豊田副武
参謀長 草鹿龍之介
第4艦隊司令長官 原忠一
第6艦隊司令長官 三輪茂義
第8艦隊司令長官 鮫島具重
第1航空艦隊司令長官 大西瀧治郎
第3航空艦隊司令長官 寺岡謹平
第5航空艦隊司令長官 宇垣纒
第10航空艦隊司令長官 前田稔
第12航空艦隊司令長官 宇垣莞爾
海上護衛総隊総司令部 野村直邦
南西方面艦隊司令長官 大川内伝七
南東方面艦隊司令長官 草鹿任一
支那方面艦隊司令長官 近藤信竹
【動き始めた和平への模索】
【Operation Downfall】
【決号作戦】
【降伏を決断させた日本の現状】
【動き始めた和平への模索】
1943年2月にガダルカナル島から撤退して以来、日本軍は戦線を後退させていった。こ
の相次ぐ敗退の原因は日本が国力以上に戦線を広げすぎたことで、この時点で日本にアメリカ
と対等に渡りあえる戦力は存在しなかった。
しかし、陸軍は自分達の敗退の繰り返しは慣れない島嶼戦で部隊も火力も満足に揃えられな
かったからだと判断しており、十分に準備の整った戦場で戦えば米軍を撃退することも不可能
ではないと考えていた。
十分な準備が整えられた戦場。それはマリアナ諸島であった。陸軍は通常1qあたりの戦線
に火砲を2、3門配備していたのをサイパンでは5門を配備するなど火力の充実に努めたほか、
水際防御戦術という戦理に忠実な部隊配置を実施した。陸軍は今度こそ敵の侵攻を阻止できる
と自信を深めていたのだ。
だが、陸軍が絶対の自信で臨んだサイパン戦で日本軍守備隊は緒戦にして組織的戦闘力を喪
失してしまう。ここに至り、日本は自分達が戦ってきた相手が尋常な国ではないと思い知った
のである。ようやくにして日本は敗北を視野にいれた終戦を意識するようになったのである。
1944年7月に東条内閣がサイパン島失陥の責任をとって総辞職し小磯内閣が発足すると
密かな和平工作がさまざまなルートで動き出した。
1945年3月16日、繆斌という男が東京に呼び寄せられた。呼び寄せたのは小磯国昭総
理で、二人を仲介したのは朝日新聞特派員の田村真作と同新聞社副社長で国務相兼情報局総裁
の緒方竹虎である。繆斌は日本の傀儡である南京政府の者で国民党政府との和平案を提示して
いたのだった。その骨子は南京政府の解消と国民党政府との停戦、中国からの撤兵交渉の開始
というもので、小磯首相はそれに乗り気となり自らその工作を推進していった。ところが、首
相と緒方以外の閣僚のほとんどがそれに反対の立場をとり、追いつめられた首相は天皇に上奏
するという賭けに出たが、天皇からは繆斌を中国に帰すようにという返答が返ってきた。この
繆斌工作の失敗が原因の一つとなり、小磯内閣は4月5日に倒壊した。
繆斌工作に反対した閣僚の中でもっとも強硬に反対したのが重光葵外相であった。彼が反対
した理由は多分ちょうど同じ時期に自分も和平工作を推進していたからである。重光は中立国
で親日国でもあるスウェーデン政府に連合国との和平の仲介してもらおうとしたのである。ス
ウェーデンの王室はイギリス王室と親しいので、まずイギリスと交渉してからその次にアメリ
カという形であったろう。重光は3月31日にウイダー・バッゲ駐日大使と外相官邸で会談し、
連合国との仲介を依頼した。バッゲは快く引き受け直ちに帰国の準備を始めたが、彼が日本を
離れる8日前に小磯内閣が総辞職して重光も外相を辞したのでこの工作は自然消滅となった。
一方、海軍省も和平への道を模索し始めていた。その急先鋒が井上成美海軍次官である。江
田島の海軍兵学校の校長から久しぶりに現場に復帰した井上は自分の想像以上に事態が深刻な
ことに愕然となり、米内海相に早急にそれも極秘に和平工作を進めることの必要性を訴えその
研究を始めることの許可を求めた。米内は軽く頷き異存をはさまなかったという。
米内から内諾を得た井上はその事を及川軍令部総長にも伝え、実質的な研究を高木惣吉教育
局長に任せた。高木は3月1日に教育局長の任に就いたばかりだったが、病気療養を名目に更
迭され9月10日付で軍令部出仕兼海軍大学校研究部員に任命された。その職務内容は次官承
命服務というものだった。
米内・井上と高木が接触したのはこの時が初めてではなかった。1942年6月に舞鶴鎮守
府参謀長に就任した高木は、ミッドウェー海戦の敗北をきっかけに密かに終戦への研究に着手
していた。その後の戦局の悪化は高木に日本の敗北を確信させたが、東条首相暗殺未遂に連座
していた彼は嶋田海相から危険視されており、米内と井上にしか自分の意見を具申できなかっ
た。だがこの時、米内と井上は中央から離れていたので高木の意見を具体化させる手段は持ち
合わせていなかった。それが今回の小磯内閣への入閣によって米内・井上・高木による終戦工
作が動き出したのである。
【Operation Downfall】
1944年7月11日、米統合参謀本部は日本本土への侵攻を予定に入れた作戦計画の立案
を決定した。それまでアメリカは本土侵攻を選択肢の一つには入れていたが、必ずしもそれが
第一ではなかった。アメリカは日本近海の制海権を奪取して日本本土を封鎖することで日本を
降伏に追い込むことができると踏んでいたのである。しかし、ここまでの日本軍の徹底抗戦と
日本(陸)軍の国内での政治的地位の研究が進んだことで、封鎖だけでは日本を屈服させるこ
とはできず本土まで侵攻して日本軍の抗戦能力を完全に粉砕する必要があるという結論に達し、
1944年9月の第2次ケベック会談でその作戦計画が承認された。この時の作戦計画は本土
侵攻を1945年の秋と予定していたが、その後の戦局の推移によって作戦の日程は変更され
ることとなった。
1945年1月から2月のマルタ会談とその翌日からのヤルタ会談の決定を受け、統合参謀
本部は3月29日に『対日攻撃戦力最終計画』を作成した。この計画では九州上陸の予定日X
−Dayを12月1日、関東上陸の上陸予定日Y−Dayを翌年の4月1日と予定した。ちな
みに九州上陸の作戦名は『オリンピック』、関東上陸作戦は『コロネット』、それらを総合し
て『ダウンフォール』と命名された。参加兵力は陸空あわせて1,074,600人に及び、
それを太平洋艦隊が全力で支援する。指揮官は4月3日に地上部隊をマッカーサー将軍が、海
軍をニミッツ提督が選ばれた。
こうして日本本土侵攻作戦は決定されたかに思われたが、陸軍航空軍と海軍から反対意見が
出された。反対を表明したのは戦略爆撃論者のアーノルド陸軍航空軍司令官と海上封鎖の信奉
者のキング作戦部長らで、彼等は日本人の抵抗は激化の一途を辿り戦術も洗練されてきている。
特に硫黄島ではかつてない損害を被ることとなった。もし、彼等の祖国に侵攻すればその損害
は硫黄島の比ではないはずだと主張した。これに対し、マッカーサー将軍は海上封鎖と戦略爆
撃では戦争を長期化させるだけであるが、日本本土に侵攻すれば損害は5万程度で済むと反論
した。もっとも将軍のいう損害5万は侵攻を実現させるための政治的思惑から出たもので根拠
がある数字から導き出されたものではなかった。
双方の主張は互いに譲ることなく最終的に戦争の長期化を避けるという目的で本土侵攻が決
定された。封鎖と爆撃だけでは日本が降伏する保証がなかったのと、長期化すればソ連が日本
に侵攻して北海道や東北を占領するのではないかとの危惧が生じたのが決め手だった。また、
長期化による士気の低下や軍紀の弛緩による捕虜虐待や住民虐殺が懸念されたことも本土侵攻
に踏み切らせた要因である。
日本本土侵攻の予定日は12月と翌年の4月であったが、その時の想定ではドイツの降伏を
7月1日としていたが、予定よりもドイツが早く降伏したので予定は繰り上げられることとな
り、それぞれ1ヶ月早められた。あとはトルーマン大統領のGOサインをもらうだけである。
九州南部の日本軍配置と米軍の上陸予定地
ルーズベルトの急逝で新大統領に就任したトルーマンは6月29日、オリンピック作戦を承
認した。前述したようにオリンピック作戦は九州の制圧を目的としていた。なぜ、九州かとい
うとこの地を関東侵攻への支援基地にするためである。ルソンを攻略するためにまずレイテ島
を占領したのと同じ戦略でアメリカ軍の常套手段であった。作戦に参加するのはルソンでの作
戦を終えたクルーガー大将の第6軍で、関東侵攻のための空・海基地の建設が目的なので制圧
地域は九州南部(川内と都農を結ぶ線)に限定された。目標は鹿児島湾と飛行場適地の多い宮
崎平野。それを迅速に制圧するために宮崎海岸へ第1軍団(第25・33・41歩兵師団)、
志布志湾に第11軍団(第43歩兵師団、第1騎兵師団、アメリカル師団)、吹上浜北部に第
5水陸両用軍団(第3・4または2・5海兵師団)の同時上陸が企図された。
オリンピック作戦は事前にX−75日からの本土全域への空爆・艦砲射撃で開始される。こ
れによって本州との連絡線の遮断、残存している艦艇の撃滅、鉄道と道路の収束点や重要な橋
梁やトンネルといった交通の要衝の破壊、上陸地点の日本軍の損耗を図るのが狙いだ。さらに
日本軍の目を逸らすため中国沿岸部や四国での陽動を実施することになっていた。
X−4日になると第158連隊戦闘団による種子島上陸と第40歩兵師団の甑島列島上陸が
実行される。X−1日には砲爆撃は上陸地点の砲台と火点に集中され、海上の障害物も取り払
われる。そして、Xday午前6時に上陸が開始される。上陸後、各部隊はX+3日まで海岸
堡を確保、X+5日には第9軍団(第77・81・98歩兵師団)が鹿児島湾に上陸する。上
陸軍は都農と川内を結ぶ線を北進の限界とし、延岡、米良荘、川内北部の線を防御ラインに設
定して日本軍の反撃を阻止する。作戦の終了はX+30日とされたが、作戦が長引くようであ
ればコロネット作戦に使用される部隊の転用や原子爆弾の使用が計画されている。
関東侵攻作戦での米軍上陸予定地点と日本軍の配置
オリンピック作戦はダウンフォール作戦の第1段階に過ぎない。日本本土侵攻の本命は関東
制圧を目的とするコロネット作戦である。コロネット作戦はオリンピック作戦の準備命令が出
された時点では細部まで計画されていたわけではなかったが、概要は『参謀研究コロネット』
に示されている。
コロネット作戦では上陸前の上陸地点への砲爆撃がY−15日からとオリンピック作戦より
長くされた。これは九州よりも時間的な余裕があるためその分防備が固められていると判断さ
れたからである。掃海と水上障害物の除去に用いる時間もY−4日からとオリンピック作戦よ
りも長くなっている。また、当然の事ながら関東各地への空爆も実施される。
上陸日を示すYdayは1946年3月1日である。上陸地点は2ヶ所。九十九里浜と相模
湾である。九十九里浜に上陸するのはホッジス大将の第1軍で、Ydayに第24軍団(第7
・27歩兵師団)と海兵第3上陸作戦軍団(第1・第4海兵師団)が、Y+5日に第96歩兵
師団と第6海兵師団が、Y+30日に仮称B軍団(第5・44・86歩兵師団)が上陸する予
定になっている。
一方、相模湾にはアイケルバーガー中将の第8軍が上陸する。Ydayに第10軍団(第2
4・31歩兵師団)と第14軍団(第6・32歩兵師団)が、Y+5日に第37・38歩兵師
団が、Y+10日に第13軍団(第13・20機甲師団)が、Y+30日に仮称D軍団(第4
・8・87歩兵師団)が上陸する手筈になっている。この他に第8軍は予備に第97歩兵師団
が、太平洋陸軍の予備として(戦略予備を含む)仮称C軍団(第2・28・35歩兵師団、第
2空挺師団)と仮称E軍団(第91・95・104歩兵師団)がある。
以上のとおり相模湾に上陸する第8軍の兵力が第1軍よりも多くなっている。これは第8軍
の担当する相模湾がコロネット作戦の主攻面だからである。上陸適地としては九十九里浜の方
が面積も広く近くに銚子港があるのでいいのだが、そこから内陸に向かうには手賀沼や江戸川
と荒川の河口部があるので進みにくいのだ。そのため米軍は主力を相模湾に上陸させることに
したのだ。コロネット作戦の目的は残された日本軍の野戦戦力の殲滅と帝都・東京の占領であ
る。オペレーション・ダウンフォールは文字通り日本帝国の滅亡を目的とした史上最大の渡洋
遠征作戦なのだ。
【決号作戦】
必勝の確信を持って挑んだマリアナ決戦で惨敗した日本陸軍はようやくにしてアメリカの力
を正当に評価することができるようになった。嫌でも敗戦を意識した終戦を考えざるを得なく
なったのだ。だが、陸軍は(海軍もだが)敵に大打撃を与えて講和の条件を少しでも有利にし
ようとする「一撃講和」に固執した。その結果が、国軍決戦と呼称されたフィリピンを巡る攻
防戦での敗北である。この戦いで海軍の主力である連合艦隊が事実上壊滅したことで、日本は
米軍の侵攻を阻止する手段を失ってしまった。
しかし、それでも陸軍は戦争を止めようとはしなかった。フィリピンでの敗北で一撃講和す
ら望めなくなっているのに、まだなお決戦の勝利を模索し続けていたのである。このような状
況下で、元首相の近衛文麿が1945年2月14日に敗戦は確実だとする上奏文を天皇に出す
が、天皇は近衛の意見に頷かなかった。この時点での降伏は軍と国民に深刻な動揺を与えるこ
とになりかねないし、何より天皇は開戦直前という極めて重要な時期に内閣を放り出した近衛
を信用していなかった。
近衛上奏文
さて、軍部は米軍の本土侵攻をいつ頃と見ていたのだろうか。マリアナでの敗北後に策定さ
れた捷号作戦は千島からフィリピンまでの迎撃作戦計画で4号まである。実際に発動されたの
はフィリピン方面の1号だが、関東方面への侵攻を想定した3号があるように軍部は44年秋
にも米軍が本土に侵攻してくるのではないかと危惧していた。冷静に考えればそれはありえな
いとわかるはずだが、サイパン島玉砕の衝撃はそれだけ大きかったと言うことだ。
米軍がいまにもフィリピンに攻め込もうとしている44年10月15日、東部軍は近衛第3
師団と第140師団(この名称になるのは後になってから)に九十九里浜と相模湾の沿岸築城
を命じた。通常、上陸戦に対する築城は水際でするものだが、日本軍はそれよりも後方に陣地
を構築した。これは米軍の砲爆撃に耐えられる陣地を築くことができなかったからだ。
この他に関東に配備されている師団が作戦地域の兵要地誌を調べている。兵要地誌とは軍事
作戦用の地図のことで、各師団はかなり詳細に調べたようだ。まあ、この時になって国内の兵
要地誌を調べるというのは如何と思うが、日本国内で軍隊が展開したのは1877年の西南戦
争以来(計画だけでは1903年)、関東に限れば1868年の戊辰戦争以来のことでいつし
か国内で戦闘が起こるとは思われなくなったのだろう。
準備を着々と進める陸軍だが、肝心の作戦計画はどうなっていたのだろうか。45年1月2
0日に『20年初頭の敵情判断』が上奏されているが、その中で米軍の本土上陸は秋以降にな
るだろうと想定されている(秋以前の上陸も否定していない)。作戦としては南西諸島(沖縄)
と小笠原諸島(硫黄島)で時間を稼ぎ、その間に本土決戦の準備を秋までに終えるというもの
だが、沖縄も硫黄島も米軍の作戦スケジュールを遅らせることはできなかった。
44年末、新しい作戦部長に宮崎中将が就任した。中将はガダルカナルを戦った第17軍の
参謀長を務めていたことがあり、米軍の戦力をその目で見てきた人である。その時の戦訓から
宮崎中将は本土決戦の準備は半年前から行うべきで、十分な火力も必要であるとした。このた
め台湾に第9師団を抽出された沖縄に代替の師団が送られなかった。余談だが、戦力が激減し
た沖縄は急遽持久戦術に切り替えている。これは沖縄を時間稼ぎにしようとしている大本営の
方針にも一致しているはずだが、どういうわけか持久戦術を消極的だとして総攻撃を強要して
いる。そのくせ沖縄の陥落が必至になると少しでも持久して時間を稼げという。その結果が沖
縄県民の悲劇である。戦後長く語り継がれる沖縄の悲劇はこの地で戦闘が行われたというより
も、大本営の一貫性のないあまりにも無責任な作戦指導に原因があった。
話はそれたが、上陸後の作戦はどうなっているかというと、対上陸作戦のセオリーである水
際防御を放棄して後方からの反撃で雌雄を決するというもので、具体的には沿岸配備部隊が敵
を拘束してその前進を阻止する、その間に機動打撃部隊が沿岸部の後背地に集結して砲兵の支
援の下、一気に海岸部に突入するというもので、日本軍の参謀が考えたにしては現実的な作戦
である。
だが、この作戦にはひとつ問題があった。それはこの作戦を実行するのに200万人の兵が
必要とされることだ。44年の段階で日本の兵力の割合は6%ほどで、盟友ドイツの3分の1、
ただいま戦っているアメリカの2%少なめとまだ余裕がありそうだが、零細企業と熟練工に頼
る生産体制ではこれ以上の増強は不可能であった。戦争指導班長の種村大佐はこの200万人
の徴集案に「12、3歳の少女に子供を産めというものだ」ともらしている。
45年になると、組織編制も進められていく。1月22日、11から16の方面軍が新設さ
れた。この頃から現地で軍と自治体の軋轢が生じるようになる。3月31日には先に編制され
た方面軍の隷下として50から58の軍司令部が編成される。戦艦大和が南の海に沈んだ4月
7日には鈴木貫太郎内閣が成立、その翌日には「決号作戦」の準備要項が示達された。15日、
京都を境に東日本を担当する第1総軍と西日本の第2総軍、航空作戦を統括する航空総軍が新
編されている。なお、この日は米軍が原爆投下作戦を策定した日でもある。
さて、陸軍の対上陸作戦は先述したように敵をいったん上陸させてから後方からの突撃で雌
雄を決するというものだが、6月20日の河辺参謀次長の通達で水際玉砕戦術が復活している。
このことを知った現地軍からは反対の声が挙がったが、陸軍は方針の転換を撤回しなかった。
なぜ、陸軍は一度は放棄した水際防御を復活させたのか。本土に一歩も敵を入れさせるべきで
はないというのは建て前で、後方打撃戦術にもいくつか問題があった。まず、日本は道路事情
が悪く機動部隊が予定どおり作戦地域にたどり着けるか不明であること、たとえ予定どおり到
着したとしても通信能力が低い日本の機動部隊では統一された作戦行動が見込めないこと、砲
兵に臨機応変に行動する能力がないこと、機動部隊の到着までに沿岸陣地を保持できるかわか
らないこと、そしてなにより兵員の軍紀・士気が最低であることだ。説明されなくても日本の
敗北が必至であることは誰の目からも明かである。婦人までも軍事教練を受けているが、これ
は嫌でも日本が敗色濃厚であることを国民に思い知らせるものであった。このような状況では
決戦云々以前に軍隊が崩壊してしまう危険があった。だからこそ陸軍は無謀であろうと何であ
ろうと玉砕戦術に転じるしかなかったのである。
決3号(関東)及び決6号(関西以西の地域、ここでは九州に限定)作戦部隊一覧
第1総軍(杉山元元帥)
第12方面軍(田中静壹大将)
第36軍(上村利道中将)
第81師団(古閑健中将・茨城県結城町)
第171連隊(今村重孝大佐・宇都宮)、第172連隊(桑利彦大佐・水戸)
第173連隊(江口小一郎大佐・高崎)
第93師団(山本三男中将・千葉県松戸市)
第202連隊(河合慎助大佐・佐倉)、第203連隊(藤原忠治大佐・四街道)
第204連隊(俵健次郎大佐・成田)
第201師団(重信吉固少将・国立)
第501連隊(染谷文雄大佐・座間)、第502連隊(山下誠一大佐・村山)
第503連隊(岩瀬武司大佐・村山)
第202師団(片倉衷少将・高崎)
第504連隊(菅野善吉大佐・伊勢崎)、第505連隊(中山佐武郎大佐・安中)
第506連隊(工藤鉄太郎大佐・本庄)
第209師団(久米精一少将・金沢)
第513連隊(安藤修道大佐・金沢)、第514連隊(力石勝寿大佐・富山)
第515連隊(林司馬男大佐・岐阜)
第214師団(山本募中将・栃木県)
第519連隊(石井星一郎大佐・宇都宮)、第520連隊(河西敬次郎大佐・矢板)
第521連隊(鳥海宗雄大佐・烏山)
戦車第1師団(細見惟雄中将・栃木県西北)
戦車第1連隊(中田吉穂大佐・佐野)、戦車第5連隊(杉本守衛大佐・埼玉県加須市)
機動歩兵第1連隊(沢敏行大佐・栃木)、機動砲兵第1連隊(神戸英大佐・佐野)
戦車第4師団(閑院宮春仁王・千葉)
戦車第28連隊(井上直造大佐・千葉県黒砂町)、戦車第29連隊(島田一雄大佐・千葉県二宮町付近)
戦車第30連隊(野口剛一大佐・習志野)
軍直轄
独立山砲兵第8連隊(高橋英吉大佐・黒田原)、独立山砲兵第17連隊(吉田大佐・信太山)
第51軍(野田謙吾中将)
第44師団(谷口春治中将・白川村)
第92連隊(伊奈重誠大佐・鉾田)、第93連隊(大沢勝治大佐・旭)
第94連隊(工藤豊雄大佐・潮来)
第151師団(白銀義方中将・宇都宮)
第433連隊(米山靖正大佐・日立)、第434連隊(遠藤典邦大佐・勝田)
第435連隊(山本茂雄大佐・稲荷)、第436連隊(宇野修一大佐・勝田)
第221師団(永沢三郎中将・鹿島灘)
第316連隊〜第318連隊
独立混成第115旅団(相葉健少将・芝崎)
独立歩兵第696〜第701大隊
独立混成第116旅団(岩根清夫少将・鉾田)
独立歩兵第701〜第706大隊
独立戦車第7旅団(三田村逸彦少将・茨城県内原町)
戦車第38連隊(黒川直敬大佐・茨城県内原村)、戦車第39連隊(大浦正夫大佐・茨城県鯉淵村)
軍直轄
独立山砲兵第13連隊(河原英二大佐・常陸太田)、野戦重砲兵第9連隊(合屋成雄大佐・玉造町北方)
砲兵情報第3連隊(菅沢栄次大佐・茨城県河和田村)
第52軍(重田徳松中将)
近衛第3師団(山崎清次中将・成東)
近衛第8連隊(永沢正義大佐・東金)、近衛第9連隊(生田正次大佐・東金)
近衛第10連隊(一木義郎大佐・東金)
第147師団(石川浩三郎中将・茂原)
第425連隊(山住伊織大佐・茂原)、第426連隊(田村禎一大佐・茂原)
第427連隊(原子正雄大佐・茂原)、第428連隊(加藤武雄大佐・茂原)
第152師団(能崎清次中将・銚子)
第437連隊(吉松季孝大佐・銚子)、第438連隊(由谷弥市大佐・飯岡)
第439連隊(中村敏夫大佐・小見川)、第440連隊(中野寿一大佐・銚子西方)
第234師団(永野亀一郎中将・八日市場)
第322連隊(光森勇雄大佐・八日市場)、第323連隊(加藤猛大佐・八日市場)
第324連隊(三宅克己大佐・八日市場)
独立戦車第3旅団(田畑与三郎少将・千葉県更科)
戦車第33連隊(貞国誠三大佐・千葉)、戦車第36連隊(石井隆臣大佐・千葉県白井村)
軍直轄
独立山砲兵第14連隊(中島政次大佐・銚子)、野戦重砲兵第27連隊(藤戸敏雄大佐・酒々井)
砲兵情報第2連隊(片島一彦大佐・八街町)、戦車第48連隊(曽原純男大佐・千葉県八街町)
第53軍(赤柴八重蔵中将)
第84師団(佐久間為人中将・小田原)
第199連隊(栗栖晋大佐・小田原)、第200連隊(川上芳雄大佐・国府津)
第201連隊(松本鹿太郎大佐・沼津)
第140師団(物部長鉾中将・鎌倉)
第401連隊(平沢喜一大佐・鎌倉山)、第402連隊(鈴木薫二大佐・千畳敷山)
第403連隊(菅原甚吉大佐・藤沢)、第404連隊(立花啓一大佐・藤沢)
第316師団(柏徳中将・伊勢原)
第349連隊(神宮祐太郎大佐・茅ヶ崎)、第350連隊(高村慶之輔大佐・平塚)
第351連隊(堀田俊大佐・平塚)
独立混成第117旅団(平桜政吉少将・沼津)
独立歩兵第707〜第712大隊
独立戦車第2旅団(佐伯静夫大佐・有馬村)
戦車第2連隊(藤井繁雄大佐・神奈川県戸塚)、戦車第41連隊(小野寺孝男大佐・神奈川県)
軍直轄
独立混成第36連隊(武藤束中佐・下田)、独立混成第37連隊(植田斎大佐)
野戦重砲兵第2連隊(石田政吉大佐・松田)、砲兵情報第5連隊(小田原)
東京湾兵団(大場四平中将)
第354師団(山口信一中将・館山)
第331連隊(鈴木文夫大佐・和田)、第332連隊(大沢進一大佐・館山)
第333連隊(萩野健雄大佐・館山)
独立混成第96旅団(惠藤第四郎少将・館山)
独立歩兵第655〜第660連隊
独立混成第114旅団(梁瀬真琴少将・横須賀)
独立歩兵第690〜第695大隊
東京湾要塞重砲兵連隊(黒岩直一大佐・千葉県滝田村)
東京防衛軍(飯村穰中将)
警備第1(重松吉正少将)・2(矢ヶ崎節三少将)・3旅団(原田 棟少将)
直轄部隊
第321師団(矢崎勘十中将・伊豆大島)
第325連隊(田中正雄大佐・伊豆大島)、第326連隊(西村勘次大佐・伊豆大島)
第327連隊(子安和夫大佐・伊豆大島)
高射第1師団(金岡☆中将・首都圏各地)☆は山と喬
高射砲第111連隊(武田文雄大佐・埼玉県安行村)、高射砲第112連隊(大島知義大佐・祖師ヶ谷)
高射砲第113連隊(都築晋大佐・川崎)、高射砲第114連隊(西野貞光大佐・月島)
高射砲第115連隊(伏屋宏大佐・市川市須和田)、高射砲第116連隊(谷口正三郎大佐・板橋)
高射砲第117連隊(樋口忠治大佐・横浜市中区)、高射砲第118連隊(栗田逞治大佐・後楽園)
高射砲第119連隊(水野縫一大佐・市川、新潟)、照空第1連隊(池田赳夫大佐・八王子)
独立混成第66旅団(中村三郎少将・新島)
独立混成第18連隊、独立歩兵第425・第810大隊
独立混成第67旅団(木原義雄少将・八丈島)
独立混成第16・第43連隊、独立歩兵第425〜第426・第668〜第669大隊
独立野砲兵第8連隊(木村竹治大佐・東京)、野戦重砲兵第8連隊(高橋克己大佐・飯能)
野戦重砲兵第11連隊(中鉢義賢大佐・龍ヶ崎)、野戦重砲兵第19連隊(佐藤修一郎大佐・松戸)
野戦重砲兵第26連隊(田地季朔大佐・国府台)、野戦重砲兵第52連隊(水落毎幸大佐・相模原)
第2総軍(畑俊六元帥)
第16方面軍(横山勇中将)
第40軍(中沢三夫中将)
第146師団(坪島文雄中将・鹿児島)
第421連隊(渡部美邦大佐・松崎)、第422連隊(守田利一郎大佐・枕崎)
第423連隊(外園進大佐・枕崎)、第424連隊(榊利徳大佐・川辺)
第303師団(野副昌徳中将・川内)
第337連隊(伊藤次作大佐・川内)、第338連隊(広中豊大佐・川内)
第339連隊(平井定大佐・川内)
独立混成第125旅団(倉橋尚少将・鹿児島県指宿町)
独立歩兵第749〜第754大隊
軍直轄
独立野砲兵第9連隊(奈良太郎大佐・指宿)、野戦重砲兵第28連隊(山根寅雄大佐・伊集院)
第56軍(七田一郎中将)
第145師団(小原一明中将・芦屋)
第417連隊(青山良武大佐・若松)、第418連隊(黄場収大佐・若松)
第419連隊(森本誠四郎大佐・若松)、第420連隊(小川逸大佐・若松)
第312師団(多田保中将・伊万里)
第358連隊(上村節蔵大佐・相知)、第359連隊(野村登大佐・唐津)
第360連隊(大塚正博大佐・呼子)
第351師団(藤村謙中将・古賀)
第328連隊(勝屋福茂大佐・宇都宮)、第329連隊(村岡安大佐・福岡)
第330連隊(大野謹之助大佐・福岡)
独立戦車第4旅団(生駒林一大佐・九州北部)
戦車第19連隊(越智七五三大佐・久留米付近)、戦車第42連隊(河原米作大佐・北九州高良台)
下関要塞守備隊
壱岐要塞守備隊(千知波幸治少将)
軍直轄
野戦重砲兵第10連隊(楠木輝雄大佐・北九州)、野戦重砲兵第29連隊(森永豪策大佐・海老津)
砲兵情報第1連隊(澁谷徳大佐・篠栗)、戦車第46連隊(清水重之大佐・福岡県福島町)
第57軍(西原貫治中将)
第86師団(芳仲和太郎中将・志布志)
第187連隊(河西清二大佐・志布志)、第188連隊(石井元良大佐・志布志)
第189連隊(山方知光大佐・志布志)、第364連隊(竹之内繁男大佐・志布志)
第154師団(二見秋三郎少将・南九州)
第445連隊(堀龍市大佐・妻)、第446連隊(瀬野赳大佐・妻)
第447連隊(佐々木高一大佐・妻)、第448連隊(永松享一大佐・妻)
第156師団(樋口敬七郎中将・宮崎)
第453師団(音成五一大佐・住吉)、第454師団(秋富勝次郎大佐・宮崎)
第455師団(大江一二三大佐・清武)、第456師団(古賀恒大佐・木脇)
独立混成第98旅団(黒須源之助少将・鹿児島)
独立歩兵第664〜第667大隊
独立混成第109旅団(千田貞雄中将・種子島)
独立歩兵第678〜第684大隊
独立戦車第5旅団(高沢英輝大佐・宮崎県本庄)
戦車第18連隊(島田豊作大佐・宮崎県綾町付近)、戦車第43連隊(加藤巧大佐・宮崎県八代町付近)
独立戦車第6旅団(松田哲人大佐・霧島山付近)
戦車第37連隊(大隈到大佐・鹿児島県由野)、戦車第40連隊(小野二郎八大佐・鹿児島県川辺町)
軍直轄
独立山砲兵第19連隊(津田三郎大佐・高瀬町)、野戦重砲兵第13連隊(眞子茂大佐・瓜生野)
野戦重砲兵第54連隊(江頭三大佐・三納代)、砲兵情報第6連隊(加藤金治大佐・佐土原町)
直轄部隊
第25師団(加藤怜三中将・小林)
第14連隊(鎌浦留次大佐・都城)、第40連隊(愛甲立身大佐・都城)
第70連隊(石川灸吉大佐・宮崎県野尻)
第57師団(矢野政雄中将・九州北部)
第52連隊(河原林克己大佐・福岡県篠栗)、第117連隊(田中金大佐・篠栗)
第132連隊(小林俊一大佐・篠栗)
第77師団(中山政康中将・加治木)
第98連隊(太田源助大佐・加治木)、第99連隊(山口武臣大佐・加治木)
第100連隊(上原清二大佐・加治木)
第206師団(前原秀中将・南九州)
第510連隊(森園武夫大佐・日置)、第511連隊(山内俊太郎大佐・田尻)
第512連隊(楠畑義則大佐・湯之元)
第212師団(桜井徳太郎少将・宮崎県)
第516師団(金田高秋大佐・都農)、第517師団(東昇大佐・新茶屋)
第518師団(松倉民雄大佐・都農)
第216師団(中野良次中将・熊本)
第522連隊(富田実大佐・宇土)、第523連隊(平井重文・宇土)
第524連隊(片岡太郎大佐・宇土)
高射第4師団(伊藤範治中将・福岡筑紫)
高射砲第131連隊(刈谷春次大佐・小倉、八幡)、高射砲第132連隊(飯塚国松大佐・熊本県)
高射砲第133連隊(池辺栄弘大佐・福岡市)、高射砲第134連隊(力石静夫大佐・長崎市)
高射砲第136連隊(篠浦信一大佐・都城)
独立混成第64旅団(高田利貞少将・徳之島)
独立混成第21・第22連隊
独立混成第107旅団(久世弥三吉少将・五島列島の福江)
独立歩兵第636〜第641大隊
独立混成第118旅団(内山隆道少将・佐賀関)
独立歩兵第713〜第717大隊
独立混成第122旅団(谷口元治郎中将・長崎)
独立歩兵第733〜第737大隊
独立混成第126旅団(林勇蔵少将・本渡町)
独立歩兵第755〜第759大隊
対馬要塞守備隊(長瀬武平中将)
独立山砲兵第18連隊(行方正一大佐・福岡西牟田)
【降伏を決断させた日本の現状】
1945年春から日本政府はソ連を仲介しての和平交渉を開始しようとしたが、すでにソ連
からは中立条約の破棄が通告されていた。条約は破棄してからも1年は有効としてあるが、ソ
連がそれを守らないのは明かである。しかし、政府は6月からマリク駐日大使と会談したのを
手始めに近衛元首相をソ連に派遣して交渉を行おうとするが、すでにヤルタ協定で対日参戦を
決めているソ連に日本を助けるという気は全くなかった。何か見返りを用意しているなら先方
も考慮しただろう。しかし、日本が用意した見返りは満州の中立化ぐらいなもので、とてもヤ
ルタ協定で密約された南サハリンと千島列島の割譲に勝てるものではなかった。ソ連という国
は領土欲の塊みたいなもので、うまくすれば北海道も手にはいるかもしれないのを捨ててまで
日本の和平を手助けすることなど有り得ないことだ。事実、日本が降伏しそうだとわかると対
日戦のスケジュールを早めている。
ソ連はドイツ降伏後すぐに極東への兵力移動を始めているが、その様子は在ソ日本大使館か
らも確認できた。佐藤駐ソ大使は外務省からソ連との交渉を命じられているが、この大規模な
兵力移動に交渉の余地はないとしてその旨を通告し無条件降伏を勧告した。しかし、外務省は
交渉の継続を命じるだけであった。
ソ連が極東に兵力を集結させている。この情報は政府も軍部も把握していたはずである。だ
が、それでも政府は交渉を継続しようとした。ソ連はスターリンもモロトフ外相も交渉の席に
はつこうとしないのに、政府はあきらめようとしなかった。もうソ連しか頼るものはないと考
えたのだろう。そして、8月9日にソ連から日本に宣戦が布告されたのである。
いまでもソ連の参戦に批判的な人がいる。まだ、中立条約が活きているのに宣戦を布告した
からだと。確かにそうである。だが、国家間の約束は当事国の利益になるから結ばれるもので
その利益が失われた以上、約束をいつまでも続けるのは愚策である。ソ連は事前に破棄を通告
してきただけまだマシだった。日本はソ連が条約を破棄したことの意味を理解するべきであっ
た。できなかったのかそれともしようとしなかったのかわからないが、これは日本外交の無能
さを示すものである。
6月23日、沖縄で守備隊を指揮していた牛島満中将が自決した。司令官の自決は守備隊の
組織的抵抗が終了したことを意味する。沖縄戦の敗北が決定したことで天皇の意思が固まった
とされている。
政府と軍の要人達が集まって降伏か継戦かを決める御前会議が開かれたが、双方の意見は拮
抗していてなかなか結論が出なかった。このままでは多数決をとったとしても紛糾するのは避
けられない。そこで、米内海相は鈴木首相に決をとらずに聖断を仰ぐべしと進言した。継戦派
をおさえるには玉を掌握するしかない。幕末・維新で薩長が使ったのと同じ手段である。
8月9日午後11時55分頃、鈴木首相・東郷外相・阿南陸相・米内海相・梅津参謀総長・
豊田軍令部総長・平沼枢密院議長の7人の重臣による意見陳述から御前会議が始まった。重臣
会議は午前10時過ぎから始まっていたので、それぞれの最終意見を述べるだけでよく、平沼
枢密院議長の1時間以上にわたる質問を交えての発言以外はほとんど短いものであったらしい。
この時点で平沼枢密院議長を除く6人の意見は半分にわかれていた。鈴木・東郷・米内は降伏
も止む無しと発言、一方梅津・阿南・豊田は継戦を主張した。梅津参謀総長はこう述べた。本
土決戦の準備は完了していると。それを聞いた天皇ははっきりと不信を露わにして、言葉を述
べた。6月に完成するはずの九十九里浜の防備が8月になっても完成していない。師団の編制
も完了したというが、銃剣すら全軍に行き渡っていないそうではないかと。事実、日露戦争時
の大砲まで引っ張ってきたぐらい日本軍は装備が不足していた。
そして10日午前2時半頃、天皇は自らの意志を伝えた。外務大臣の意見に同意であると。
これは日本の無条件降伏を要求したポツダム宣言の受諾を表明したことを意味する。その場に
は7人の他に迫水書記官長・吉積陸軍省軍務局長・保科海軍省軍務局長・池田内閣綜合計画局
長官らが陪席、天皇の側に蓮沼侍従武官長がいた。
ポツダム宣言
こうして聖断は下された。だが、まだ陸軍がクーデターを起こして決定を覆すという危惧が
あった。天皇が2月に近衛からの上奏文に頷かなかったのも迂闊に陸軍を刺激したくなかった
からだ。案の定、継戦派の阿南陸相が梅津参謀総長にクーデターを持ちかけた。陸軍内では降
伏反対の声が高まっていた。決行はポツダム宣言受諾を最終的に決める8月14日、天皇を別
室に連れだし出席者を監禁するという筋書きであったという。だが、梅津がそれを拒否すると
阿南も無理強いはせずにあっさり引き下がった。やけにあっさりしているが、これは強硬派に
対するポーズであったのだろう。降伏が正式に決まると阿南は鈴木首相に降伏に反対し続けた
ことを詫び、次いで東郷外相を訪ね笑顔で無事に行って結構でしたと挨拶した。阿南は14日
に「一死以て大罪を謝し奉る」という遺書を残して割腹自決したが、それを聞いた東郷外相は
「そうか、腹を切ったか。阿南というのはいい男だな」と言ったという。
阿南が自刃する前、阿南と梅津、そして畑第2総軍総司令官、杉山第1総軍総司令官、土肥
原教育総監の5人が懇談していたが、阿南が席を立ったのと入れ違いに河辺参謀次長が入って
きた。河辺は陸軍としての進む道を明確にしていただきたい。議論も考案も必要ない。御聖断
に従って行動するだけと存じますと言った。皆はそれに同意した。河辺は若松陸軍次官と隣の
大臣室に移動して荒尾軍務課長と3人で「陸軍はあくまで聖断に従って行動す」と一文を書き
記してそれを皆に見せた。そこへ阿南が戻ってきて河辺が書面を見せると、陸相以下異議なし
となり、捺印や花押をしたのであった。
こうして陸軍としてのクーデターは発生しなかったが、軍務局の若手の一部がクーデターを
決起した。軍務局課員の椎崎二郎中佐・畑中健二少佐、航空士官学校教官の上原重太郎大尉、
通信学校教官窪田兼三少佐らによってクーデターは起こされた。
彼等は近衛第1師団を動員して聖断の撤回を図ろうと窪田と上原を森師団長の説得に派遣し
たが、森中将がそれを拒否すると15日午前0時、彼を殺害した。一緒にいた白石第2総軍参
謀も殺された。二人は『近作(近衛作戦という意味か)第584号』という偽の命令書を作成
して部隊の動員に成功したが、彼等だけで成功するはずがなかった。やがて命令が偽物である
ことが分かり、皇居を封鎖していた部隊は15日未明に田中東部軍司令官(第12方面軍司令
官)によって解散させられた。決起の首謀者はほとんどが自決したが、一部は卑怯にも戦後も
生き続けている。
近衛師団の他にも海軍の厚木航空隊などが反乱を起こそうとしたが、全体として平穏無事に
終戦にこじつけることができた。これによって日本の軍隊は解体させられるが、国家と民族の
安泰は保証されたのである。
さて、常に好戦的だった陸軍が最後になって聖断に従ったのはなぜだろうか。2度の原爆投
下か、それともソ連の参戦か、確かにそれもある。だが、真に陸軍首脳に継戦を諦めさせたの
は国内事情であった。戦局の悪化による大量徴兵が原因の熟練工の不足と空襲による生産力の
低下、人手不足と農地買収による食糧不足で国民の士気はかなり低下していた。本土決戦の兵
力はそんな国民から徴集されたが、当然戦力になるものではなかった。日本軍は各地で執拗に
抵抗を続けてきたが、彼等は多年錬磨の精強なる軍隊であった。しかし、本土で新たに編制さ
れたのは素人による訓練不足の部隊だったのである。当然、彼等の規律は無きに等しかった。
7月25日に第1・第2・航空総軍から軍紀が弛緩している、離隊逃亡が相次いでいる、そ
の原因は食糧不足である、特攻隊員の悪質犯罪といった報告がなされている。また、憲兵隊か
らも物欲・色欲に起因する犯罪が多発していると報告された。
火力や技術力の劣勢を精神力でカバーするしかない日本陸軍において、軍紀の崩壊は戦慄す
べき重大事であった。徴兵制の軍隊において国民の意思は決して無視できるものではない。中
国との戦争が始まってから士気の退廃は進んでいた。戦陣訓が制定されたのもそうした規律の
低下が原因だった。軍法会議で処刑された者の数は1938年の時点で2197人だったのに
対し、44年は5500人以上となっている。長引く戦争は日本陸軍が何よりも重く見ていた
精神さえも蝕んでいたのだ。
犯罪を犯していたのは兵士だけではない。一般市民も窃盗や強盗、公共施設や交通機関の破
壊といった犯罪を繰り返していた。国民の軍に対する不満・反感は頂点に達していた。親兄弟
息子は遠い戦地で戦死し、物資の不足は深刻化、おまけに空襲と、これが我慢を長年強いられ
てきたことへの答えか。連合軍が戦後調査した結果、敗戦を確信した人の割合は空襲の拡大と
激化に比例して多くなっているという。家が焼かれ、目の前で家族や知り合いが死んでいくの
である。誰もが前途を悲観しても不思議ではないだろう。全国を視察して回った参謀達はそう
した現実を見せつけられた。そして彼等は悟ったのである。もう精強な帝国陸軍は存在しない
のだと。
天皇が降伏を覚悟したのは6月とされている。天皇が期待をかけていた沖縄戦が敗北に終わ
ったことで大御心は陸軍から離れた。そして、天皇が降伏を決断したとき陸軍は大命に服した。
しばしば天皇をないがしろにしてきた陸軍参謀本部に降伏止む無しと判断させたもの、それは
軍隊の現状であった。繰り返すが、徴兵制の軍隊において国民と軍は不可分である。表面上は
軍は天皇の命令に従って降伏を受けいれているが、彼等にそれを決断させたのは国民だったの
である。
敗戦の日、大本営陸軍部から煙が立ち上がった。機密書類を燃やしてできた煙である。誰に
命令されたでもなく、ただ敗戦が決定してから自然に発生した出来事であるという。静かに燃
える書類と同じように日本帝国陸海軍も静かにその歴史と役割に幕を下ろしたのである。
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