一言、これは最終回ではない
連合艦隊の最期
−Last of Grand Fleet−


 
       終戦時の残存艦艇
     戦艦   長門 伊勢(大破着底) 日向(大破着底) 榛名(大破着底)
     航空母艦 隼鷹 葛城 鳳翔 龍鳳(大破) 天城(大破横転)
     重巡洋艦 利根(大破着底) 青葉(大破着底) 高雄(大破) 妙高(大破)
     軽巡洋艦 酒匂 鹿島 北上(大破着底) 大淀(大破横転)
     駆逐艦  43隻
     潜水艦  57隻
     その他  450隻
 
 
 
 
【帝国海軍の終焉】 【日本海軍の再生】
    【帝国海軍の終焉】     マリアナ、フィリピンと2度の決戦に敗北した日本帝国海軍連合艦隊は多数の艦艇を失った    ことにより、その部隊編制すらも維持できなくなっていた。     まず、11月15日に第1機動艦隊と第3艦隊が解隊された。これは言うまでもなく4ヶ月    ほどの間に7隻の空母を沈められたからである。同時に空母直衛部隊の第10戦隊も解隊され    た。第10戦隊に所属していた駆逐艦は大半が第2水雷戦隊に編入され一部は第1水雷戦隊に    配備されたが、1水戦は5日後に解隊されてしまっている。12月5日には北東方面艦隊が解    隊された。これは捷1号作戦に第5艦隊と第12航空艦隊を転用されてしまい実質的な戦力が    低下していたからだ。その後、第5艦隊は南西方面艦隊に編入され、12航艦は1945年2    月15日に大湊警備府と統合された。     レイテ沖海戦後、海軍は米艦隊と正面からぶつかる海戦を放棄させられることになった。戦    艦や重巡といったかつての艦隊の花形は輸送船の護衛やあるいは自身が輸送船代わりになるこ    としか仕事がなくなった。それは空母も同様だったが、彼女達にはまだ特攻を含む機動作戦に    も使われる可能性があった。第1機動艦隊及び第3艦隊は消滅したが第1航空戦隊はまだ存在    している。海軍はまだ機動部隊の再建を諦めておらず、1945年中期以降を目処に機動部隊    を編成できるように整備することにしていた。     年が明けて1945年1月1日、第2艦隊が改編された。2ヶ月ほど前のレイテ沖海戦の時    は戦艦7、重巡11を擁していた同艦隊だったが、この時点では第1戦隊と第1航空戦隊、第    2水雷戦隊のみで構成されていた。第1戦隊は戦艦大和と長門、それと第3戦隊から編入され    た戦艦榛名で編成された。第3戦隊は前年11月21日に戦艦金剛が潜水艦に撃沈されている    ので今回の榛名の転出で解隊となった。     1月8日、第2航空艦隊が解隊され第1航空艦隊に統合された。月末には第5艦隊も解隊さ    れた。     前述したように海軍は機動部隊の再建を諦めていなかったが、2月になると燃料不足等の理    由でこれを断念せざるを得なくなっていた。第1戦隊は解隊され、大和は第1航空戦隊に編入    されたが、長門と榛名は防空砲台として係留されることとなった。第2艦隊は3月15日に第    31戦隊を、4月1日に第11水雷戦隊を編入されているが、7日の沖縄特攻で大和以下多数    の艦艇が海に沈んだため20日に解隊された。同時に第2水雷戦隊も解隊され、所属の駆逐艦    は第31戦隊に編入された。その第31戦隊と第11水雷戦隊は連合艦隊の付属となった。第    1航空戦隊はしばらくは存続していたが、今後活躍することはないだろうとして6月頃に解隊    された。6月15日には第1航空艦隊も解隊されている。     4月25日、それまで別の司令官が指揮していた連合艦隊・支那方面艦隊・海上護衛総司令    部・各鎮守府及び警備府の部隊を統括指揮する海軍総隊司令部が設立され豊田連合艦隊司令長    官が司令官を兼任した。海軍総隊の導入は陸軍が指揮系統の統一のために総軍を編制したのに    影響されたからという。職員も連合艦隊司令部と兼任である。     海軍総隊は海軍部隊を統括指揮する組織の筈だったが、5月19日に豊田大将が軍令部総長    に就任すると、そこらへんがすこしおかしくなった。後任が小沢治三郎中将になったので彼よ    り先任の司令官が指揮する南西・南東の両方面艦隊が29日に大本営直属となり海軍総隊と別    組織となった。小沢長官を大将に進級させる話もあったのだが、本人が何人かの先輩を飛び越    えての進級を拒否したため実現しなかった。     もうこの頃になると小沢長官にできることはほとんどなかった。彼の唯一の功績といえば降    伏の日に抗戦を主張する将兵を抑えて無事に終戦へともっていたことだろう。海軍総隊と連合    艦隊は10月10日に解隊された。     前線で兵士が戦っている頃、海軍省では終戦に向けた工作が進められていた。その最先鋒が    井上成美海軍次官である。大臣である米内光政大将は健康を害していて鈴木貫太郎内閣が組閣    されると、井上次官に大臣になるよう要請した。しかし、老齢で強力な指導力を発揮できない    鈴木首相を補佐できるのは首相を経験した米内大将しかいないと考えた井上次官は独断で米内    留任に動きこれを成功させた。     敗戦も視野にいれた終戦を模索する米内達を抗戦派は敵視していた。下手すれば暗殺の危険    もあった。しかし、井上次官は米内大臣に「終戦が遅れれば遅れるほど国民が死んでゆくので    す。殺されてもいいじゃないですか。それで日本が救われるのなら」と言って、時には弱気に    なる大臣を励ました。     沖縄で日米両軍が死闘を繰り広げていた6月8日、日本は御前会議で本土決戦を決定した。    天皇はこの決定に不満だったそうだが、この時はそのことを伝えることはしなかった。しかし、    22日の御前会議では一転して天皇の意思で終戦に向かうこととなった。政府はソ連に仲介役    を頼むことにしたが、すでにヤルタ協定で対日戦参加を約束しているソ連はこれを無視した。    それどころかソ連のスターリンは日本の戦後の処置を決めるポツダム会議に出席しているのだ。    ポツダムはベルリンの郊外にあり、ベルリンを占領しているソ連軍の管轄下にあった。会議室    の設営と料理のもてなしはソ連が賄っていたのだ。だが、日本政府は7月26日に発表された    『ポツダム宣言』の署名国にソ連が加わっていないのを見て、ソ連がまだ中立の立場にあると    誤解してしまった。実際はアメリカのトルーマン大統領が意図的にソ連外しを画策したからで    あった。     米英中(中国の蒋介石総統は会議には出席していないが、連名の機会を与えられた)3国に    よるポツダム宣言を日本政府が知ったのは27日午前6時のサンフランシスコ放送の報道から    であった。その内容を知った陸軍は当然の事ながら憤慨し、鈴木首相は軍部の突き上げに屈し    て翌日の午後7時にラジオ放送でポツダム宣言の黙殺と戦争遂行を表明した。日本の表明は黙    殺=ignoreだが、アメリカはこれを拒絶=rejectと受け取った。これは日本にとって大いなる    悲劇を振りまく結果となってしまった。日本が降伏を拒否した以上、その本土への侵攻は不可    避となったし、何よりもこれで原爆投下作戦が発動されたのだった。     レイテ沖海戦で組織的な活動が不可能となってしまった連合艦隊だったが、戦争が続いてい    る以上艦艇をただおいておくわけにもいかなかった。無論、取りうる作戦は特攻ぐらいなもの    だが、艦艇部隊もただ沈められていく一方ではなかった。絶望的な戦況でも敵に一泡吹かせて    やることはしていたのだ。1944年12月3日のオルモック湾海戦では日本の駆逐艦「竹」    が米駆逐艦クーパーを雷撃で撃沈しているし(これが日本の水上艦艇が雷撃で米艦艇を撃沈し    た最後の例となった)、25日の礼号作戦では日本軍水上部隊がフィリピンのミンドロ島への    砲撃に成功している。さらに翌年の2月には艦隊で軍需物資や食糧等を本土に運送する北号作    戦を成功させているし、7月29日には原爆運搬任務の帰途にあった重巡インディアナポリス    を伊58潜水艦が撃沈している。戦時状態の米国軍艦が撃沈されたのはこれが最後である。     だが、絶望的な戦況にあってはこれらも何ら意味のない事であった。それ以上に米軍は日本    の艦艇を葬っているのだ。その最後の総仕上げとなったのが3月19日から7月28日まで段    階的に実施された呉空襲である。     呉は言うまでもなく海軍の根拠地である。事実、ここには多数の艦艇が在泊していた。その    大半は燃料不足で外洋に出ることもままならず浮き砲台になるしかない艦であったが、アメリ    カ軍は来る本土侵攻に向けて可能な限り日本軍の戦力を叩きつぶすことにしたのだ。     1回目の空襲は3月19日に実施された。土佐沖に進出した米第58機動部隊が艦載機20    0機余りで呉に来襲して、海軍工廠と在泊艦艇、呉に隣接する広の第11空廠などを爆撃した。    しかし、日本軍もやられるばかりではなかった。新鋭機の紫電改と熟練搭乗員で編成された松    山第343航空隊が米軍機に善戦して久しぶりに空戦で勝利を収めた。帰還した米軍パイロッ    トは日本軍に強力なニュータイプの戦闘機が出現したと報告している。この日の被害は江田島    沿岸に係留されていた空母龍鳳が命中弾5発で戦闘能力を喪失した他は艦艇も地上の施設もた    いしたダメージは受けなかった。艦艇の被害が少なかったのは偽装がなされていたからである。     空襲でたいした打撃を与えられなかったと判断したアメリカ軍は航空偵察による写真撮影で    目標を第11空廠に絞り込んだ。5月5日の第2次空襲で米軍はマリアナから出撃したB29    170機でもって第11空廠の80%と広工廠の半分を破壊することに成功する。それに対す    る損害は撃墜2機、損傷51機であった。しかし、攻撃目標が呉湾ではなく広地区で対象も工    場施設であったため、艦艇の被害は戦艦榛名に命中弾が1発あっただけである     3回目の空襲は6月22日であった。飛来したのは186機のB29で、呉工廠造兵部がタ    ーゲットとなった。艦艇からの対空放火でB29は1機が撃墜、1機がエンジン故障で墜落、    96機が損傷を受けたが、呉工廠をほぼ壊滅させることに成功した。しかし、この時も艦艇の    被害は榛名が艦尾に1発くらっただけであった。     7月1日から2日にかけての第4次空襲は夜間で空も雲に覆われていたのでレーダー照準に    よる爆撃が実施された。今回は対空砲も効果がなく、1機に損傷を与えただけであった。16    0機のB29によって呉市街は灰燼に帰した。     工廠も市街地も破壊した米軍はいよいよ在泊艦艇の壊滅に着手した。7月24日の第5次空    襲はハルゼー提督の第3艦隊の艦載機514機で行われた。ハルゼー提督にとってこれは真珠    湾の復讐であった。今も昔もアメリカはやられたら何倍にしてやりかえす国のようである。国    の体制をも崩壊させることも変わらない。この攻撃で戦艦伊勢が5発の命中弾で右舷艦首部か    ら浸水して着底した。その後、排水作業で浮上したが、艦橋にも命中弾があって艦長らが戦死    した。他にも戦艦日向が命中弾10発で座礁した。     7月28日、この日は艦載機559機が襲来した。前回、辛うじて生き残った伊勢も14発    の命中弾を受けて戦闘不能となった。何度も被害にあった榛名は集中的に攻撃され大破着底し    た。他にも重巡青葉が命中弾8発で大破着底し、空母天城も大破横転した。空母葛城も飛行甲    板を損傷した。これだけ一方的にやられたのは副砲や高角砲、対空機銃が取り外されていたか    らであった。それでも伊勢は着底しても主砲を撃ち続け、帝国海軍の最後の意地を見せた。     この攻撃で呉は完全に壊滅した。湾内が浅瀬であったため艦艇は完全に沈むことなくその残    骸をさらした。それは壊滅した連合艦隊を象徴するかのようであった。この日をもって戦闘部    隊としての連合艦隊はその栄光と波乱に満ちた歴史に幕を下ろしたのである。     ポツダム宣言を無視したことで日本の状況はますます悪化した。広島・長崎への原爆投下、    ソ連の参戦と日本は破滅の危機に瀕した。ここに至り天皇も心を決め、8月10日の御前会議    でポツダム宣言受諾止む無しとする東郷外相の意見に同意すると重臣達に伝えた。実はこれに    は受諾派の企みがあった。会議が開かれる前、米内海相は鈴木首相に多数決を取って、たとえ    受諾派が多数になったとしてもそれが(反対派と)少ない差であれば、軍部が必ず騒ぎ出しま    す。ここは多数決を取るよりも、聖断を仰ぎそれをもって会議の結論とすべきですと伝えた。    鈴木首相はその言葉の通りにして、日本の降伏が決まった。     ポツダム宣言受諾の電報は御前会議終了3時間後にはスウェーデンとスイスを通じて、連合    国側に伝えられたが、日本政府は天皇大権の変更はなしという条件を付けた。しかし、12日    早朝のバーンズ国務長官らの回答は天皇は連合国最高司令官の制限下に置かれるというものだ    った。サンフランシスコ放送でこれを知った豊田軍令部総長と梅津参謀総長は天皇に拝謁して、    ポツダム宣言受諾拒否を上奏した。しかし、正式回答はまだではないかとさとされただけであ    った。     豊田総長の行動を知った米内海相は激怒して総長と大西軍令部次長を大臣室に呼びつけた。    大臣は二人に不動の姿勢をとらせて、軍令部総長の職にある者が海軍の統制を破ったのは不届    きであると叱責した。普段温厚な大臣が隣の秘書室にまで聞こえるぐらいの怒声を発したこと    でさしもの豊田総長も謝るほかなかった。思えば海軍の作戦を指導する軍令部総長を海軍大臣    が叱責するなど久しく見られなかったことだ。これは現役ナンバー1の米内大将だからできた    ことだ。豊田総長はその後も自分の主張を変えることはなかったが、この件によってロンドン    条約以降、軍令が軍政に優越するという体制は最後の最後になって軍政が上に立つ本来あるべ    き形となって帝国海軍は臨終の時を迎えることができた。     8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾は正式に決定した。その情報はアメリカ政府に、    そして日本近海に展開する米軍部隊にも伝えられた。ミッドウェーで勝利を収め、その後は第    5艦隊を率いてマリアナと沖縄で日本軍と戦ったスプルーアンス提督は、息子とグアム基地を    散歩しているときにラジオで日本降伏を知った。特別感情を露わにすることはなかったが、本    土侵攻を避けたいと思っていた提督にとっては安堵を得た思いであろう。     日本空爆の指揮を執っていたハルゼー提督の下にも報せは届いた。旗艦ミズーリから全艦隊    に向けて提督は戦争終結を宣言したが、この時合衆国海軍きっての猛将の目から光るものがあ    ったという。ナグモの機動部隊がパールハーバーを襲ったとき、ハルゼー提督は空母エンター    プライズでウェーク島に向かっている最中であった。奇襲を防げなかったという無念の思いを    噛みしめて戦ってきた提督だったが、これでもう部下を殺さずに済むと勝利を祝した。     日本敗戦の報は各地の日本軍部隊にも伝わった。祖国の敗戦を知らされた将兵達はただ呆然    とするばかりであったが、中には降伏を認めずに決起に走る者もいた。     8月16日朝、草鹿連合艦隊参謀長は大分飛行場に到着した。連合航空艦隊司令長官として    転出予定の宇垣纒中将と第5航空艦隊司令長官を交代するためである。本当は13日に引き継    ぎの筈であったが、何か不手際があったらしい。3日遅れての到着となった。     大分飛行場には横井参謀長以下5航艦の参謀達が出迎えのために待機していたが、草鹿中将    はその中に宇垣中将の姿がないことに気づいた。参謀長に宇垣司令はどうしたと尋ねると、な    んと宇垣中将は前日に部下と共に特攻出撃したというのだ。それを聞かされた草鹿中将は仰天    した。司令長官が特攻に出撃した部隊がおとなしく米軍の進駐を受けいれるとは思えなかった    からだ。案の定、若手が宇垣長官に続くべしと新長官に迫って、草鹿中将の心胆を寒からしめ    た。だが、草鹿中将が「貴官らの気持ちはわかる。しかし、今は陛下の思し召しに副い、皇軍    の潔さを米国軍民に示すべきではないか。私は終戦平和に努力する決意である。不都合と思え    ばまず私を血祭りにあげよ」と語ると、室内に満ちていた呻き声はすすり泣きに変わったとい    う。     5航艦の不穏な動きに対処するため草鹿中将は参謀長を伴って東京に急行し、米内海相、豊    田総長、各艦隊司令長官らと会議に臨んだ。その席で草鹿中将は不測の事態を避けるには、突    然の終戦に気が立っている特攻隊員達を家郷に帰しておくことだと発言した。本当は帝国軍人    らしく堂々と引き揚げることが望ましいが、進駐軍といさかいを起こさないことが先決であっ    た。     草鹿中将の意見に海相も総長も賛成したので、中将は一足先に戻っていた参謀長に早期復員    が決まったから自分の名前で復員命令を出すように命じた。この時の命令の対象は特攻隊員だ    けで、通信関係や整備士といった必要な部署は残されたが、20日に届いた命令では対象が隊    員すべてに変わった。米軍が九州に進駐してきたのは9月3日から5日にかけてであった。     【日本海軍の再生】     9月13日に大本営、10月10日に海軍総隊及び連合艦隊、15日に軍令部、11月30    日の海軍省が解隊あるいは廃止され、海軍は事実上解体された。とはいっても、海外からの復    員作業や日本近海の掃海業務に連合国への艦艇の引き渡しなど、陸軍よりも仕事があったので    ある程度の組織は残されており、1946年1月4日からの公職追放も猶予されていた(あく    までも猶予で免除ではない)。     日本を占領統治する連合国軍総司令部GHQは当初、日本の非武装化を考えていた。戦時中    の日本軍の異常とも思える徹底抗戦を見れば当然のことだが、東アジア情勢の急変によりその    方針は変更されることとなった。1949年に中国が共産化し、その翌年には朝鮮戦争が勃発    した。世界情勢もソ連のベルリン封鎖や核実験成功により東西両陣営の緊張は高まっていた。     朝鮮半島での戦闘が激化し、日本駐留の米軍が半島に向かった穴を埋めるために警察予備隊    が創設されたことは周知の通りだが、当時の日本はあまりもの性急な民主化により共産革命の    危険が増大していた。幸い日本の場合は何事もなかったが、民主主義は他国からおしきせられ    ても上手くゆくものではないといういい見本である。もっとも世界の警察を自負する大国には    そのことはおわかりになられないようだ。     敗戦のショックから立ち直ってきた元軍人の間から再武装を要望する声が挙がってきた。野    村吉三郎元大将以下、福留繁・保科善四郎・富岡定俊・高田利種・山本善雄といったかつて海    軍の中枢にいたメンバーが集まって再軍備の研究を始めた。戦争責任の多くを負わされた陸軍    と違って、海軍は復員作業等のため限定ながらも組織が残っていたこと、海軍中佐だった高松    宮宣仁が精神的支柱になったこと、さらにはこのまま日本海軍をおしまいにするのは惜しいと    いう米海軍の同情もあり、海軍再建の道は開かれた。     新海軍の母体となったのは海上保安庁であった。敗戦後の日本近海の治安体制は密漁・検疫    ・税関・治安といったものが異なる省庁によって行われていて、それぞれが縄張り争いを演じ    ていた。そうした問題を解消するために運輸省の外局として創設されたのが海上保安庁である。    この新しい組織の主力となるのが掃海船であり、それを動かす為に海軍軍人が採用されたので   ある。     一方、陸軍は組織が徹底的に破壊されたこと、戦争責任をほとんど背負わされたこと、海上    保安庁のような組織がなかったこと、精神的支柱になる人物がいなかったことなどが影響して、    海軍みたいに団結することができなかった。彼等の中からも再軍備を求める声が高まったのだ    が、海軍みたいに一致団結してそれを目指すことができず、幼年学校出身者で構成される再軍    備積極派(戦前は親独派。服部卓四郎元大佐らで構成)と中学出身者で構成される自重派(親    英米派。辰巳栄一元中将が中心)に分かれていた。前者は鳩山一郎や芦田均と、後者は吉田茂    と結ばれていた。     こうした再軍備の動きに加速をつけたのが朝鮮戦争である。当時の日本には公然と北朝鮮を    支持する50万人以上の勢力が存在しており、それらが労働運動と結びついて国鉄や港湾でゼ    ネストを打てば、米軍の補給線は途絶してしまう。さらにはソ連がシベリアで洗脳した旧日本    軍人とともに侵攻して来るという噂も流れていた。それらに対処すべき駐留米軍は朝鮮半島に    行かなければならず、その穴埋めをはかる必要に迫られた。     1950年7月8日土曜日午前9時頃、木村四郎七外務省連絡局長は日比谷の第一生命相互    ビルの6階にあるGHQ民政局で、局員のネピア中佐からマッカーサー書簡と呼ばれる書簡を    渡された。木村はそれを岡崎勝男官房長官に渡し、昼頃に吉田首相に届けられた。書簡の内容    は日本の社会秩序維持のため、日本警察に75,000人のナショナル・ポリス・リザーブと、    8,000人の海上保安庁職員の増員を許可するというものだった。     このナショナル・ポリス・リザーブとは何か。政府は警察予備隊と直訳して、警察関係者が    検討を開始したが、やがてこの組織は警察行動は行わないことが明かとなり単なる警察組織の    改編ではないことが確認された。次に旧内務官僚らで7月17日から準備委員会が組織された    が、その直後に陸軍の再軍備積極派である服部グループが我々が新しい組織の制服組の中枢な    のでよろしくと挨拶してきた。彼等は進駐軍のウィロビー少将の紹介状を持っていた。このエ    リート軍人の集団の出現に旧内務官僚達は組織防衛に走り、公職追放が解かれていない服部ら    の排除に成功した。     こうして新組織は旧内務官僚達が主導することとなり、8月10日に警察予備隊令が公布・    施行され、23日に選考に合格した第1回目の約8,000人が入隊した。次は制服組のトッ    プを誰にするかである。士官学校出身の旧軍人は採用しないことになっているが、かといって    学徒出陣ながら少尉や中尉だった者が多い連中の頂点が軍歴のない者では重みに欠ける。吉田    首相は林敬三宮内庁次長をこの職に就けることにした。林自身には軍歴はないが、彼の父親は    陸士8期の林弥三吉中将という軍人で、宇垣一茂大将とも親しかった。吉田首相は宇垣が背後    にいれば旧軍人も林に遠慮するだろうと考えたのだ。     警察予備隊が組織された時期は北朝鮮軍が米韓軍を圧倒して釜山にまで追いつめていた。そ    の釜山も危うくなってきて、日本駐留の米軍が増援として送り込まれた。戦況は9月15日の    仁川上陸作戦で一変するが、その1ヶ月後には中国軍が参戦してソウルが再度陥落するなど一    進一退を繰り返していた。こうした状況では日本も巻き込まれるのは避けられず、朝鮮半島水    域の掃海作業に従事することとなった。終戦以来、近海の掃海作業に勤しんでいた日本にとっ    てこの任務は適任で、1950年中に27個から28個の機雷を処分したが、触雷して犠牲者    が出たこともあった。この事は当時国民には知らされなかったが米軍には好印象を与え、それ    が後に海上自衛隊が海軍の伝統を保持したまま創設される一助となった。     旧内務官僚が主導して組織された警察予備隊は軍事のプロである旧軍人を排したため、訓練    などに混乱を来してしまった。一方、海軍に代わる組織といえば海上保安庁だが、これはコー    ストガードであり、ネイビーの復活を臨む連中にしては眼中にないものだった。そのため米軍    からフリゲートの貸与を打診されたときも旧海軍関係者はすぐにはこれに飛びつかなかった。    そのため海軍の復活は遅れることとなったが、結果的にはそれで良かった。1951年10月    にフリゲート貸与の件は正式に吉田首相に伝えられ、政府としても海軍の復活を検討しなけれ    ばならなくなった。そこでY委員会と呼ばれる組織が作られ、意見の統一が図られることとな    った。その結論は新しい組織はコーストガードでもなく、海上保安庁を補強するものでもなく、    いつでも海上保安庁から分離できるものとされた。     こうした方針に沿って、1952年4月26日に海上警備隊が発足した。この頃になると、    警察予備隊も活動の本格化で旧軍人の参加が臨まれることとなり、公職追放も徐々に解除され    ていった。そして、1951年9月のサンフランシスコ平和条約で日本が主権を回復すると、    公職追放は完全に解除された。その翌年の8月1日には総理府の外局として保安庁が発足して、    海上警備隊は海上保安庁から離れ保安庁の管轄となった。同じ年の10月15日には、警察予    備隊が保安隊に改編、1954年7月1日に陸海空の自衛隊が発足した。     こうして日本は終戦から9年目にして再び軍事力を持つに至った。現在の日本ではそれは軍    事力とは呼ばれないが、国家と国民の生命や財産を守るために武力で備えるということは軍事    力の保有に他ならない。ただ一つ軍事力と自衛権の違いと言えば法整備の問題があげられるだ    ろう。発足から何十年も経て有事の際に自衛隊はどう動くべきか議論があるのは馬鹿馬鹿しい    限りだが、法の問題は当初から指摘されていた。それは旧軍人からなされたものではなく、旧    内務官僚からなされたのだった。法律が全てである旧内務官僚にとって法の未整備は行動の妨    げとなる。旧軍人の方はそうは考えない。有事となれば超法規的手段も許されると認識してい    る軍人は法の未整備もさほど問題ではないのだ。そうした風潮が高いのが海上自衛隊である。    ペルシャ湾の時もインド洋の時も海上自衛隊は新法が制定される前に艦艇を現地に派遣してい    る。これは警察予備隊を経て発足した陸上自衛隊と異なり、海上自衛隊は旧海軍の影響を色濃    く残したまま発足したことが原因だろう。護衛艦等に掲げられる自衛艦旗にもそのことがうか    がえる。陸自の自衛隊旗の旭光が8本に対し、自衛艦旗のそれは16本と戦前の軍艦旗とほと    んど変わらないのだ。現在では防衛省という組織に一緒になっている陸海の自衛隊だが、元々    は違う組織でその成り立ちの経緯もまったく異なるものであったのだ。うーむ、タイトルと内    容がここまで異なるのも珍しいな。
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