高天神城攻防戦

 
 2009年はお城がブームだそうで、そういや攻城戦って取り上げてないなって思いまして今回の企画となり
ました。“この城を制する者は遠州を制する”と謳われた要衝で、武田と徳川の激戦の舞台となった高天神城は
織田信長と武田勝頼の政治的な思惑が戦局に影響を与えた城でもあった。                 
 東遠州にある高天神城は駿河の戦国大名今川家の家臣・小笠原氏の居城だったが、徳川家康の遠州侵攻開始早 々にしてその手中に落ちた。城主の小笠原氏興・長忠父子が今川家を見限って徳川に寝返ったからである。だが、 それは家康の東遠州制圧の完了を意味しなかった。なぜなら、要衝としては高天神城の上位にある掛川城が未だ 今川家当主・氏真が籠っていることもあり頑強に抵抗していたからである。東海道を押さえるには高天神城だけ でなく、掛川城も確保する必要があるのだ。その掛川城も5ヶ月の攻城戦の末、永禄12年5月17日に陥落し て今川氏真も降伏、戦国大名としての今川家は消滅して遠州は家康の支配するところとなった。その後、家康は 引馬城を改築して浜松城と改名してそこに移った。制圧したばかりの遠州の支配の強化と武田信玄の脅威に備え るためである。  今川家を攻めるために徳川と手を結んだ武田信玄だったが、それは一時的な同盟であって遠江は徳川の領土と するという約束を守るつもりなど毛頭なかった。すでに、遠州制圧戦の最中に武田家は遠江の国人衆を勧誘した り、徳川・武田の境界線と定めた大井川を越えて遠江に侵入するなどしており、いやでも家康は武田家の動向を 警戒しなければならなかった。  その武田家の脅威に対処するため元亀元年10月8日、家康は越後の上杉輝虎(12月に謙信と称す)と同盟 を結んだ。これは周辺の外交関係を複雑にしてしまった。御周知のとおり、家康は織田信長とも同盟を結んでい る。その信長は武田家とも同盟関係にあるのだ。信玄の後継者となる勝頼の正妻は信長の養女(姪)である。こ の時点では、家康は信長の意向を気にすることなく自己の判断で行動できたのである。  家康が上杉家と同盟を結んだことを知った信玄は、ただちに家康と断交して2万の軍勢を率いて遠江に侵攻し た。元亀2年2月24日、大井川を渡河した武田勢は高天神城に進軍した。武田勢を迎え撃ったのは小笠原与八 郎長忠で、2000の兵とともに高天神城に籠城した。3月5日、信玄は塩買坂に布陣して重臣の内藤修理亮昌 豊に命じて高天神城を攻撃した。だが、それは攻略を目的としたものではなく防備の程度を確認するための威力 偵察にすぎなかった。攻略が困難な城に対しては孤立させて自落を待つのが信玄のやり方である。そして、高天 神城の守りが強固と判断した信玄は兵を引き上げた。この事が高天神城を信玄が落とせなかった要害としてクロ ーズアップさせることとなるのだが、前述したようにあくまでも威力偵察であって攻略に執着することなく撤退 したことからも判断して同城の戦略的価値はそれほど高くはないのだ。しかし、それを理解できない者がいた。 誰あろう信玄の子息・勝頼である。  元亀4年4月12日、信濃駒場にて武田信玄は没した。信玄没後の武田家は四男・勝頼が取り仕切ることにな った。ここで、家督を相続したと記さないのは勝頼は彼の息子・信勝が成人するまでの代行とされていたからだ。  四男である勝頼は本来なら武田家の当主になれる立場ではなかった。事実、彼は母の実家を継いで諏訪四郎を 名乗っている。勝頼の頼は諏訪家の通字(その家に代々継承される一字。徳川将軍家の家、織田家の信など)で 武田家の通字である信の字を名前につけていないことからして、勝頼がどのような立場にいたか理解できるだろ う。だが、長兄の義信が父の方針に反発して粛清されたことから武田家に次期当主がいなくなるという事態が発 生した。二男は盲目、三男はすでに死没しているから勝頼にお鉢が回ってきたのだが、前述したように彼は諏訪 家の当主となっている。諏訪家は勝頼の祖父・信虎の娘つまり信玄の妹を嫁に迎えていながら武田家を離反して その結果、信玄によっていったんは打ち滅ぼされた経緯があり、武田家家臣たちの受けはよろしくなかった。信 玄が諏訪の娘を側室にする時にも反対があったぐらいだ。当然、諏訪の血が入っている勝頼に対しても良い感情 を持つことはなかった。だが、他家を継いだから家督を相続できないとなれば信玄の息子たちに候補者はいない ということになる。そこで、信玄は自身の孫にあたる勝頼の息子・武王丸を次期後継候補としたのだが、武王丸 はまだ幼児であるため成人するまでは勝頼が陣代を務めるよう指示したという。  だが、勝頼からしたら自身が信玄亡き後の武田家当主であるという自負があった。ここに勝頼と彼を陣代とし て軽視する宿老たちの不協和音が発生することとなった。重臣たちを自分に従わせるには戦果を挙げるしかない と判断した勝頼はすでに疲弊していた領国を休ませることなく対外戦争を再開させた。信玄は死後3年は喪に服 すよう遺言したとされるが、織田信長はその勢力をさらに拡大させつつあり3年も待っていたら彼我の国力差は さらに広がるのは自明の理だった。勝頼には無理をしてでも対外戦争を始める必要があったのだ。  天正2年5月8日、勝頼は数万の軍勢を率いて遠江に出陣した。美濃・三河・遠江で織田・徳川に勝ち続けて いた勝頼は信長の戦意を疑うようになっていた。領国の美濃に攻め込まれても織田勢は武田との決戦を回避して いるからだ。ただ、これは1月に越前で大規模な一向一揆が発生して兵力に余裕が無かったのと、武田が攻略し た明智城は美濃にあるとはいえ岐阜の直接的な脅威にはならなかったからだ。それはさておき、武田勢は12日 に高天神城を包囲して攻撃を開始した。高天神城が陥落したら掛川城は孤立してその一帯は無力化されてしまう。 家康は必ず後詰に出るはずと勝頼は読んだ。家康も高天神城への救援の必要を感じていたが、徳川単独では後詰 は不可能だとも理解していた。信長の増援が到着するまで家康は指を咥えて見ているしかなかった。  武田勢は城の北西に穴山梅雪、西に駿河先手衆、南の大手に内藤昌豊と山県昌景、北の搦手に信濃先手衆が展 開した。彼らは城を強攻したが、信玄が力攻めを控えただけあって犠牲ばかり大きく戦果は乏しかった。攻撃す る一方で勝頼は穴山梅雪に命じて開城交渉させた。高天神城を守る小笠原弾正は時間稼ぎのために交渉に応じる ことにし、家臣の匂坂牛之助を浜松に派遣して増援を要請した。しかし、徳川勢1万では城を囲む25000の 武田勢には対抗できず家康は信長に救援を求めた。高天神城が武田勢の包囲されたことは15日には信長の耳に も届いていた。伊勢長嶋の一向一揆を殲滅するため準備を進めていた信長は家康からの急報を受け取ると、16 日に岐阜に帰って兵の動員を開始したが、7月に予定されていた長嶋攻めのために動員は遅々として進まなかっ た。この一時的な兵の欠乏期に高天神城が包囲されたことは信長と家康にとって不運だった。結局、信長が岐阜 を出陣したのは報せを受けてからほぼ1ヶ月経った6月14日で、17日には三河の吉田に到着した。  信長が三河に現れたとの報せに武田勢の首脳は動揺した。徳川勢だけを撃滅するのが今回の目的だからだ。勝 頼は1万貫という破格の所領を条件に小笠原長忠に開城降伏を促した。籠城してから1ヶ月以上も経過している のに増援が現れないことを家康に見捨てられたと判断した長忠は信長が吉田に到着した同じ日に勝頼からの条件 を受け入れて開城した。高天神城の陥落を19日に知った信長は今切の渡しまで進軍していながらさっさと兵を 引き上げ21日に岐阜に帰った。長嶋攻めが目前に控えている信長は家康のために兵を損するつもりはなかった のだ。だが、明智城、高天神城と相次いで後詰にしたことは信長の威信を大いに傷つけていた。特に、織田がろ くに支援をしてくれないことに徳川の家臣たちは不満と不信を募らせ、事は多少の黄金や家康と信長の個人的な 関係で丸く収まるものではなかった。一方、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させたことは勝頼の武威を大 いに示した。だが、高天神城を制圧しても東海道を制圧したことにはならない。東海道を制するには掛川城を攻 略する必要があり、その意味では高天神城よりも天正元年に築城された諏訪原城の方が戦略的には重要であった。 だが、勝頼は父を越える実績を目に見える形で示すことを優先させた。それは実現して高天神城は勝頼の栄光の 象徴となったが、それは容易に放棄できない状況を作り出し勝頼の首を締め付けることなった。しかも、度重な る遠征は武田の領国を疲弊させる結果となり、さらに悪いのは勝頼を増長させ信長と織田勢を完全に見下すよう になったことだ。以後、勝頼は織田との決戦を恐れないようになり、長篠での大敗となるのである。  天正3年5月21日、三河長篠城を包囲していた勝頼は後詰にやってきた信長と家康に決戦を挑んだ結果、馬 場・山県・土屋・内藤といった重臣を失い自身も命からがら甲斐に逃げ落ちるという惨敗を喫した。長篠といえ ば鉄砲3000丁とか三段打ちが有名だが、合戦の勝敗はそれらが要因ではなく防御を固めている兵力優勢な敵 に突撃を敢行するという勝頼の戦術ミスが敗因である。  それはともかく、これで武田と徳川のミリタリーバランスは一変した。家康はただちに攻勢に出て手始めに二 俣城を包囲した。次に6月2日に駿河に侵入して各地を放火して回り、7月には諏訪原城を攻撃した。諏訪原城 は城将の室賀昌清と小泉忠季がよく守ったが、8月24日に陥落して以後は牧野原城と改名して家康は駿河への 進攻路を確保した。さらに家康は大熊備前守朝秀が守る小山城を包囲したが、勝頼が2万の大軍で後詰してくる と牧野原城に撤退した。実は、武田勢は12、3歳の少年兵や還俗した者が多くかつてのような精強な軍隊では なかったが、そうした実情を知らない家康は武田勢を過大評価して決戦を回避した。勝頼が長篠での損害を回復 している途上の軍勢で出陣したのは小山城が陥落すれば高天神城が孤立してしまうからである。また、東海道の 要衝である諏訪原城に続いて小山城までも失うわけにはいかなかった。家臣や領民は強い主君を求める。主君は 彼らの忠誠を繋ぎとめるために強くなければならない。  だが、いくら虚勢を張っても武田勢の現状は張り子の虎で、徳川の攻勢にさらされている前線の城を救援する ことはできなかった。そのため、二俣城・樽山城・犬居城が相次いで徳川の手に落ちている。犬居城を奪取した ことで、家康は北遠江の失地を回復したことになり残るは高天神城を奪回して東遠江を回復すれば遠州はほぼ徳 川が制圧したことになる。  一方、武田側にしてみたら敵中に突出している高天神城は不要な存在になりつつあった。もはや、攻勢に出る 能力がない武田方が高天神城に固執する必要はないのだ。戦略的に見たら二俣城のように開城して撤退するのが 良策なのだが、信玄が落とせなかった城を落したという勝頼にとって唯一の自慢が高天神城であり、長篠以後の 求心力が急激に低下した勝頼にはどうしても手放せない城なのだ。そのことが高天神城の価値を不必要に上げる ことになり、結局は武田家の命取りになるのである。  対する家康は大須賀康高を修築した馬伏塚城に入れて高天神城に備えていたが、天正4年3月の武田勢の高天 神城への兵糧搬入作戦を阻止することはできなかった。だが、翌年の8月に遠江に出陣した武田勢を撃退すると、 ようやく家康も武田勢の戦力が低下していることを知り以後は武田勢を恐れなくなった。翌年から家康は駿河へ の侵入を繰り返すが、このことは高天神城が駿河への敵の侵攻を阻止する防波堤としての機能を果たせていない ことを証明している。逆に遠江への侵攻拠点としての価値もない。勝頼の意地だけで維持しているような城なの だ。7月に横須賀城が築かれると高天神城から西進するルートも遮断されてしまう。家康の攻勢はさらに続くが、 勝頼はそれに介入することはなかった。越後の上杉家で家督相続をめぐる内紛が勃発して、それの対応で忙殺さ れていたからだ。そして、御家騒動が決着して上杉家と盟友関係となった武田家は北信濃の兵力を他方面に移動 することができるようになったが、勝頼はそれを苦戦が続く遠江戦線ではなく関東に振り向けるという愚を犯し てしまった。北条氏との戦いは優勢に推移していたが、そのことは北条氏政を家康と信長に接近させるという結 果となってしまう。天正7年9月5日に、家康と氏政は同盟を結んで武田家は東西から挟撃されてしまうことと なった。家康は19日に駿河の持舟城を攻略して勝頼に高天神城を救援する余裕がないことを確認すると、つい に高天神城の攻略に着手した。駿河の田中城と遠江の小山城を攻撃して武田勢を牽制している間に、小笠山・風 吹・能ヶ坂・火ヶ峰・安威・獅子ヶ鼻・中村・三井山に砦が築かれ、高天神城の周囲に深濠が掘られて柵が結ば れると高天神城は完全に孤立した。徳川の攻撃は近いと判断した城将の岡部丹波守長教は勝頼に救援を要請した が、北条勢と対峙している勝頼に高天神城を後詰する余裕はなかった。天正8年9月、勝頼は高天神城を見捨て る決断を下した。これまでの高天神城を維持するための遠江への出陣は武田領国に負担を強いるだけの戦略的に は無意味な行動だった。ようやくにして勝頼は正しい判断を下したのだが、それはあまりにも遅かった。すでに 高天神城は政治的な価値を高めすぎていたのである。そして、それを見逃さなかったのが信長である。  天正9年1月、勝頼から何の連絡も無いことに見限られたことを悟った岡部は矢文で降伏する旨を徳川方に伝 達したが、家康は降伏を認めなかった。勝頼が高天神城を見捨てたという事実をより大きく喧伝するための信長 からの指示である。実は攻囲の状況は信長に報告され、軍監も派遣されていた。対等な関係だった両者はいつし か家康が信長に従属する関係になっていたのである。  勝頼の威信を失墜させるという信長の政治的思惑の犠牲となった高天神城の武田勢は、封鎖による補給途絶で 兵糧も尽きて体力も無くなりつつあった。最後の時が訪れたと悟った岡部は信玄公と勝頼公の恩義に報いる時が 来たと出撃を決断した。そして天正9年3月22日、岡部は徳川家家臣・大久保忠世が守る林の谷に斬り込んだ。 それを迎え撃ったのが忠世の弟・彦左衛門で、岡部に太刀をつけたもののそれが敵の大将だと気付かず首を家来 の本多主水に取らせた。このとき、岡部が名を名乗らなかったので本多は誰を討ちとったかわからないでいたが、 首実検で岡部丹波守と判明して驚喜した。一方、彦左衛門は岡部と知っていたら自分が討ちとっていたと悔しが ったという。そんな弟に忠世は敵が誰かわからなくなるぐらい興奮しているからそうなる。これから経験を積ん でいけば落ち着いて相手の顔も判別できるようになると諭した。こうして、桶狭間で勇名を馳せた岡部以下の城 兵は玉砕して高天神城はついに落城した。軍監の横田尹松は西側の尾根を伝って脱出に成功し、わずかに生き残 った城兵も助命されたが、武者奉行の孕石元泰だけは家康の命で切腹させられた。孕石は今川家の旧臣で、人質 時代の家康をいじめていたという。  高天神城の陥落で勝頼の威信は完全に地に落ちた。領内に重税を強いてまで守ろうとした城を失ったことは、 そうした負担が無意味であったと知らしめることとなった。武田家の財政は度重なる出陣で破綻寸前となってお り、上杉家の内紛で勝頼が上杉景勝に味方したのも景勝方から金の譲渡を提示されたからという。  戦略的にみたら勝頼は高天神城よりも掛川城を攻略すべきだった。高天神城は信玄がしたように孤立させてお くだけでよかったのだ。そして、長篠以後はさっさと放棄するべきだった。だが、勝頼は自分の力を示す象徴を 欲していた。その意味で、信玄が落とせなかった高天神城は勝頼にとって掛川城よりも政治的に重要な城だった。 その目論見通り高天神城は勝頼の栄光の象徴となり、その失陥で勝頼の栄光も消え失せた。翌天正10年2月、 信長は武田への最終攻勢を発令した。かつて、戦国最強とまで恐れられた精強軍団は見る影もなく武田勢は崩壊、 わずか1ヶ月ほどで武田家は勝頼の自刃で400年以上の歴史に幕を下ろした。高天神城も廃城となりその役目 を終えた。勝頼と高天神城はまさに運命を共にしたと言えるのではないだろうか。
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