1世紀も続かなかった国家若しくは政権


 
【近代以前】 【近代〜現代】 【現代】
         (前221〜前206)        周の時代より存在。前221年、中国を統一。前206年、二世皇帝が自決さ       せられ滅亡。        始皇帝(前221〜前210)        二世皇帝(前210〜前207)          (8〜23)        前漢の外戚である王莽が皇帝位を簒奪して成立。23年、各地の反乱の鎮圧に       失敗し、王莽は群衆によって殺害された。        王莽(8〜23)          西晋(265〜316)        司馬炎が魏の元帝より禅譲されて成立。280年、呉を滅ぼし中国を統一。3       16年、匈奴の国家・漢の侵攻で滅亡。        武帝(265〜289)        孝恵帝(289〜306)        孝懐帝(306〜311)        愍帝(313〜316)                    西ローマ帝国(395〜476)        395年、ローマ皇帝テオドシウス1世が死の際に帝国を二人の息子に分割統       治させることを遺言。弟のフラヴィウス・アウグストゥス・ホノリウスが帝国の       西半分を支配し、西ローマ帝国が誕生。476年9月4日、ロムルス・アウグス       トゥスがゲルマン人の将軍オドアケルによって退位させられ帝国は滅亡。        ホノリウス(395〜423)        コンスタンティウス3世(421)        ヨハンネス(423〜425)        ウァレンティニアヌス3世(425年〜455年)        ベトロニウス・マクシムス(455)        アウィトゥス(455〜456)        マヨリアヌス(457〜461)        リビウス・セウェルス(461〜465)        アンテミウス(467〜472)        オリブリオス(472)        グリケリウス(473)        ネポス(473〜475)        ロムウス・アウグストゥルス(475〜476)          東ゴート王国(493〜552)        西ローマ帝国滅亡後、イタリアを支配していたオドアケルも倒され、その後に       オドアケルを倒した功績でテオデリックがイタリアを支配し東ゴート王国成立。       552年、東ローマ帝国軍の侵攻で滅亡。        テオデリック(493〜526)        アタラリック(526〜534)        アマラスンタ(534)        テオダハド(534〜536)        ウィティギス(〜540)        ヒルデバルト        トティラ        テヤ          (581〜618)        楊堅が北周の静帝に禅譲されて建国。589年、陳を征服して南北朝時代を終       わらせ中国を統一。618年、恭帝が李淵に禅譲して滅亡。        楊堅(581〜604)        煬帝(604〜618)        恭帝(617〜618)          武周(690〜705)        唐の高宗の后であった武則天が帝位につき成立。705年1月24日、息子の       中宗に譲位した。        武則天(690〜705)          平家政権(1179〜1183)        平治の乱に勝利した平清盛が1179年に後白河法皇を幽閉し、院政を停止さ       せたことで成立。1183年に木曾義仲によって京を逐われて崩壊。        平清盛(1179〜1181)        平宗盛(1181〜1183)          (1271〜1368)        モンゴル帝国第5代ハーンのクビライが国号を中国風に大元と改めて成立。1       279年、南宋を滅ぼして中国を征服。北宋崩壊以来の南北分裂時代に終止符を       打った。1368年、明に追われ北に逃走し北元となる。        世祖(1271〜1294)        成宗(1294〜1307)        武宗(1307〜1311)        仁宗(1311〜1320)        英宗(1320〜1323)        泰定帝(1323〜1328)        天順帝(1328)        文宗(1328〜1329)        明宗(1329)        文宗(1329〜1332)先々代とは同一人物        寧宗(1332〜1333)        恵宗(1333〜1368)          建武政権(1333〜1336)        鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇により君主専政型の政権。1336年、足利       尊氏の離反で崩壊。        後醍醐天皇(1333〜1336)          堺公方(1527〜1532)        足利義冬が管領・細川晴元や三好元長らの支援で樹立。堺を本拠とする。幕府       は近江にあったが実質的な機能を停止しており、堺公方が事実上の幕政を掌握し       ていた。三好元長が細川晴元に討たれたことで義冬が阿波にもどって消滅。        足利義冬(改名して義維)1527〜1532)          織豊政権(1575〜1603)        1575年に織田信長が権大納言に任官して成立。1582年の本能寺の変で       一時的に消滅。その後は羽柴秀吉が後継となり1585年に関白となる。160       3年の徳川幕府成立で瓦解。        織田信長(1575〜1582)        羽柴秀吉(1585〜1598)        羽柴秀頼(1598〜1603)          大順(1643〜1644)        反乱軍のリーダー李自成が1643年に西安を陥として即位。国号を大順とし       た。翌年に北京を攻略して明を滅ぼすも、わずか40日で清と明の遺臣達の攻撃       で敗北、崩壊した。        李自成(1643〜1644)          イングランド共和国(1649〜1660)        クロムウェルに主導されたイングランドの独立派議員が1649年1月30日       に国王チャールズ1世を処刑して王制を廃止して5月に共和国を成立させた。1       653年、クロムウェルは議会を解散し終身護国卿として独裁を開始。1658       年にクロムウェルは病死し、1660年に王制支持の長老派議員にチャールズ2       世が迎えられ王政復古。        オリバー・クロムウェル(1653〜1658)        リチャード・クロムウェル(1658〜1660)          フランス帝国(1804〜1814、1852〜1870)        フランス革命の防衛戦争、2度のイタリア遠征とエジプト遠征で功績を挙げた       ナポレオン・ボナパルトが国民投票で皇帝に即位。一時はヨーロッパの大半を支       配する大帝国を築いたが最後は敗北して退位を余儀なくされた。1815年に一       旦、復位するもワーテルローで敗北して第1帝政は崩壊。その後、1852年に       甥のルイ・ナポレオンが国民投票で皇帝に即位して第2帝政がスタート。187       0年の普仏戦争に敗北して帝政は崩壊した。        ナポレオン・ボナパルト(1804〜1814、1815)        ナホ゜レオン・フランソワ・シャルル・シ゛ョセ゛フ・ホ゛ナハ゜ルト(1815)        シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1852〜1870)        ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(1870)          オーストリア帝国(1806〜1867)        すでに形骸化していた神聖ローマ帝国がライン同盟の結成により消滅したこと       で成立。その後もドイツの支配を狙うが、1866年の7週間戦争での敗北で永       久にドイツから手を引くことになった。1867年にハンガリーに自治権を与え       てオーストリア・ハンガリー二重帝国となる。        フランツ1世(1806〜1835)        フェルディナント1世(1835〜1848)        フランツ・ヨーゼフ1世(1848〜1867)          ブラジル帝国(1822〜1889)        1822年にポルトガルから独立。1889年に保守派のクーデターで帝政が       廃止された。        ペドロ1世(1822〜1831)        ペドロ2世(1831〜1889)          イタリア王国(1861〜1946)        長らく小国家が乱立していたイタリア半島をサルデーニャ王国が1861年に       統一。その後も普墺戦争・普仏戦争・第1次世界大戦で制圧しきれなかった領土       も統治するが、ファシストを積極的に支持したと言うことで1946年に国民投       票で僅差であったが王政廃止が決定された。        ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1861〜1878)        ウンベルト1世(1878〜1900)        ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1900〜1946)        ウンベルト2世(1946)          オーストリア・ハンガリー帝国(1867〜1918)        1853年からのクリミア戦争でロシアとの関係が悪化し(これによりウィー       ン体制の遺産であった神聖同盟は完全に崩壊)、イタリア統一戦争や普墺戦争で       敗北したオーストリアは国際的地位が低下し、帝国内の諸民族の独立運動を招い       た。これらを軍で鎮圧しようにも支配階級であるドイツ人は総人口の24%にす       ぎず、衰退期にはいっている時期では完全鎮圧は不可能だった。        そこで、総人口の20%を占めるマジャール人に自治権を与えることで懐柔し、       帝国を維持する方針が立てられた。帝国をオーストリアとハンガリーに分割し、       君主と軍事・外交にその財政のみを共有して他は独自に行う二重帝国が誕生した。        だが、帝国を分割してもオーストリア人とマジャール人の人口はそれぞれの国       で過半数を占めて折らず、それ以後も民族問題が治まることはなかった。        1918年のサラエボ事件で第1次世界大戦が勃発し、オーストリア・ハンガ       リーは中央同盟の一員として参戦するも戦争の長期化で民族運動は加速し、チェ       コスロバキア臨時政府の樹立が連合国に承認されると他の民族も独立を宣言し、       盟邦のハンガリーまでも分離独立したことで650年間も中央ヨーロッパに君臨       したハプスブルク家の帝国は完全に崩壊した。帝国の崩壊で中東欧地域は極めて       不安定となり、ドイツのヒトラーの台頭、第2次世界大戦の勃発、戦後のソ連に       よる東欧支配を招いた。尚、ハプスブルク家は1961年までオーストリアへの       入国を禁止されている。        フランツ・ヨーゼフ1世(1867〜1916)        カール1世(1916〜1918)          日本帝国(1868〜1947)        1868年に王政復古の大号令が発せられ近代日本が始まった。帝国という国       号が定められたのは1890年に大日本帝国憲法が施行されてから。しかし、1       936年まで外務省は外交文書に日本・日本国とも記していた。これは国名にこ       だわりがなかったためである。皇室典範では日本帝国や大日本国と表記していた。       太平洋戦争に敗北してからも帝国は存続したが、1947年に新憲法が施行され       国名は日本国となった。        明治天皇(1868〜1912)        大正天皇(1912〜1926)        昭和天皇(1926〜1947)          ドイツ帝国(1871〜1918)         普仏戦争終結直前の1871年1月18日にプロイセン王ヴィルヘルム1世        がフランスのベルサイユ宮殿で戴冠式を行いドイツ帝国が成立。数百年間にわ        たり幾つもの小国家に分裂していた地域のため帝国はプロイセン・バイエルン        ・ヴェルテンブルク・ザクセンの4つの王国、バーデン・メクレンブルク=シ        ュヴェリン・ヘッセン・オルデンブルク・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッ        ハ・メクレンブルク=シュトレリッツの6つの大公国、ブラウンシュバイク・        ザクセン=マイニンゲン・アンハルト・ザクセン=コーブルク=ウント=ゴー        タ・ザクセン=アルテンブルクの5つの公国、リッペ・ヴァルデック・シュワ        ルツブルク=ルードルシュタット・シュワルツブルク=ゾンゼルスハウゼン・        ロイス(弟系と兄系があり、弟系の方が面積が大きい)・シャウムブルク=リ        ッペの7つの候国、直轄領のエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)        にハンブルク・リューベック・ブレーメンの3つの都市国家で構成される連邦        国家として建国された。         1918年に第1次世界大戦での敗北が決定的となり皇帝がオランダに亡命        して帝国は終焉を迎えた。ちなみに正式な国名はドイツ国であり、1945年        の第3帝国の崩壊まで使用された。         ヴィルヘルム1世(1871〜1888)         フリードリヒ3世(1888)         ヴィルヘルム2世(1888〜1918)          大韓帝国(1897〜1910)        1895年の下関条約で清国の冊封体制から離脱した李氏朝鮮が1897年に       国号を大韓と改め高宗が皇帝に即位した。1905年に日本の保護国となり、1       910年に併合された。        高宗(1897〜1907)        純宗(1907〜1910)          ドイツ共和国(1919〜1934)        ワイマール共和国とも。正式な国号は旧帝政時代と同じくドイツ国。ヴェルサ       イユ体制への国民の不満と少数政党の濫立による政情不安に1929年の世界恐       慌で大量の失業者の発生などで次第に国民の信用を失いナチスとヒトラーの台頭       を招いた。1933年に全権委任法が制定されワイマール憲法は死文化された。       その翌年、ヒトラーは総統に就任しドイツはナチスの一党独裁体制となった。        フリードリヒ・エーベルト(1919〜1925)        パウル・フォン・ヒンデンブルク(1925〜1934)          イラク王国(1921〜1958)        第1次世界大戦でイラクはオスマン・トルコの支配から離れイギリスの委任統       治領となった。イギリスはイラクの政体を君主制とし、ハシム家を王家とする王       国を成立させ1932年に独立させた。しかし、以後もイギリスの影響下にあり       第2次世界大戦ではそれに反発して一時的に親独政権が誕生したこともあった。        経済的には1927年にキルクークで油田が発見されたことで比較的裕福だっ       たと思われるが、1948年からの第1次中東戦争で悪化してしまった。また、       中央条約機構の発足を巡ってエジプトと対立するようになり、エジプトがシリア       と連合を組むとそれに対抗して同じハシム家が統治するヨルダンとの同盟を締結       しようとするがこれは軍部の反発を招く結果となり、さらに同盟にまだイギリス       の統治下にあったクウェートも含めようとしたことでイギリスの後ろ盾も失って       しまうことになった。        1958年、エジプトのナセル大統領に感化された自由将校団のカセム准将ら       がクーデターを決行すると国王は抵抗を断念して摂政の叔父に殴殺され、その叔       父と王の家族も反乱軍によって全員処刑された。        ファイサル1世(1921〜1933)        ガージー(1933〜1939)        ファイサル2世(1939〜1958)          エジプト王国(1922〜1953)        エジプトはオスマン・トルコの間接支配を受けていたが、同時にイギリスの保       護国でもあった。第1次世界大戦で英土が開戦するとエジプトはトルコの支配か       ら離脱し、1922年2月28日にエジプト王国が成立した。翌年には憲法が制       定され立憲君主国として近代化を目指すが、イギリスの影響は依然として強大で       独立は名目的なモノだった。そのため軍部では反英的気運が高まり、イギリスに       追従する王制にも疑問を持つようになった。        1936年にエジプトはイギリスと同盟条約を締結してイギリス軍の駐留を縮       小させるがこれはイギリスとの妥協であり、これを反英団体だったはずのワヒド       党が行ったことでイギリスの支配からの即時脱却を目指す勢力を失望させ王制打       倒をも視野にいれた革命派を誕生させることになった。        1948年に第1次中東戦争が勃発し翌年に惨敗という結果に終わると王制に       対する支持は決定的に失われた。反王制派の軍人達は惨敗の原因を王制による政       府の混乱と腐敗にあるとして自由将校団を組織し、1952年7月23日にクー       デターを起こして国王を追放した。翌年の6月18日、クーデターの首謀者であ       るナジブ・ナギブはムハンマド・アリー朝の廃絶を宣言して共和制に移行させる       ことを発表した。        フアード1世(1922〜1936)        ファルーク1世(1936〜1952)        フアード2世(1952〜1953)          ソビエト社会主義共和国連邦(1922〜1991)        ソビエトとはロシア語で『評議会』という意味。10月革命で政権を奪取した       ボリシェヴィキは反革命軍との内戦や列強の武力干渉といった試練を乗り越え、       ロシアの支配権を確実なものとして1922年12月30日にソビエト連邦の成       立を宣言した。        ソ連は世界初の社会主義国家であり、国家が経済を統制する計画経済で30年       代の世界恐慌の影響を受けず高い経済成長を成し遂げたため当時の知識人から理       想視されていた。        だが、70年代にはいると共産党内の腐敗や技術の停滞、重工業を重視しすぎ       たために軽工業の発達が疎かとなり国民生活が悪化し、さらに冷戦下での軍備増       強による経済の疲弊などソ連の国力は低下するようになり、食料をアメリカから       の輸入に頼るまでになった。こうした事態に組織が腐敗し人事が硬直した共産党       は有効な手段を打つことができなかった。        80年代後半からゴルバチョフによるペレストロイカと呼ばれる改革が開始さ       れるが、市場経済の導入はインフレを引き起こしかえって国民の生活を困窮させ       また、経済活動の自由は政治の自由とつながりバルト3国の独立宣言を招いた。       こうした社会不安と連邦制崩壊の危機に政府内では保守派と急進的改革派が対立       し、ゴルバチョフの求心力を低下させた。        1991年、危機に瀕した連邦制を維持するためゴルバチョフは各共和国の権       限を強化した新連邦条約の成立を目指すが、ブレジネフの流れを汲む保守派はこ       れをソ連邦の崩壊に繋がるとして反対し、ゴルバチョフと各共和国指導者が新連       邦条約を締結する予定だった8月20日の前日にクーデターを決行、別荘で休暇       中だったゴルバチョフを拘束しモスクワ放送を占拠した。だが、クーデターはモ       スクワ市民の猛反発を招き、軍も最終的には事態を静観すると発表したことでク       ーデターは行き詰まり首謀者達は国外への逃亡を図った。現実を無視したクーデ       ターによってソ連邦は一挙に崩壊へと突き進んだ。ゴルバチョフは政界に復帰す       るが、もはや彼の求心力は完全に失墜していた。共産党も活動停止に追い込まれ       連邦制維持のための支柱を失ったソ連はクーデターから4ヶ月後の12月25日       に消滅した。        ウラジミール・レーニン(1922〜1924)        ヨシフ・スターリン(1924〜1953)        ゲオルギー・マレンコフ(1953)        ニキータ・フルシチョフ(1953〜1964)        レオニード・ブレジネフ(1964〜1982)        ユーリ・アンドロポフ(1982〜1984)        コンスタンティン・チェルネンコ(1984〜1985)        ミハイル・ゴルバチョフ(1985〜1991)          ユーゴスラビア王国(1929〜1941)        ユーゴスラビアとはユーゴスラブ(南のスラブ)の土地という意味である。彼       等が居住していたバルカン半島はオスマン・トルコとオーストリアが長年支配し       ていた。やがてトルコが衰退するとユーゴスラブの中でいち早くセルビアとモン       テネグロが独立を回復したが、北のクロアチアとスロベニアはオーストリアの支       配を受けたままだった。さらにオーストリアはトルコからボスニア・ヘルツェゴ       ビナを併合している。これにセルビアが反発してサラエボ事件が発生し第1次世       界大戦へとつながった。この大戦ではセルビアとモンテネグロは中央同盟軍に敗       北するが、最終的には同盟国の敗北で大戦が終結したため戦勝国に列することが       できた。大戦終結後にクロアチア・スロベニアなどがオーストリアからの支配を       離れるとこれらの国とセルビアとモンテネグロで「セルビア人・クロアチア人・       スロベニア人王国」が成立した。        しかし、政府と軍部の要職を独占するセルビア人に対し他の民族特にクロアチ       ア人が猛反発するとクロアチア人議員が次々と暗殺される事態になった。これに       クロアチア人の怒りが爆発して全域で反セルビアの抗議デモが発生した。セルビ       アはこの事態を中央集権の強化で収拾を図り、1929年に国名を「ユーゴスラ       ビア王国」と改めセルビア主導の政治体制をさらに強化させた。こうしたセルビ       ア人による非セルビア地域の統治は当然非セルビア人達の反感を醸成し90年代       まで続く血で血を洗う殺戮劇の土壌となった。        1934年に国王がクロアチアの右翼集団「ウスタシャ」に暗殺されるとセル       ビア人による専制政治が見直され、連邦制への移行が図られるが多様な民族がま       るでモザイクのように混在しているユーゴではどのような線引きをしてもどうし       てもその枠から外れる人達が出てくるのである。ユーゴでの民族対立は建国当初       からの先天的な病気の様なモノで容易に解決される問題ではなかった。30年代       になってヨーロッパでファシストが力を持つようになると第1次大戦で同じ陣営       だったという誼からクロアチア人右派勢力のウスタシャなどはドイツの支援でフ       ァシスト政権を樹立してユーゴからの独立を図った。        30年代後半になると益々ファシストの勢力は増して39年にはギリシャを除       く隣国全てがファシストに支配されるようになった。自国内でもファシストが浸       透しつつある状況に政府はクロアチアにボスニアも付けた上での独立自治州とす       ることでユーゴの分裂を阻止しようとする一方で、ファシストの親玉であるドイ       ツとイタリアに接近して1941年3月25日に枢軸同盟に加盟した。まあ、同       盟と言っても一緒に戦争するわけではなく、枢軸国に敵対する国と断交する代わ       りにドイツ軍などの外国の軍隊をユーゴ国内に進駐させないということが約束さ       れただけで、ユーゴ政府にとっては自国を戦争に巻き込まないための方便だった。       だが、第1次大戦とドイツと戦ったセルビア人の多くはドイツとの同盟に反対し、       同盟締結決定の翌日にクーデターが発生して枢軸同盟への加盟の破棄とソ連との       不可侵条約締結を発表した。5月に対ソ戦の開始を予定していたドイツの独裁者       ヒトラーはこの裏切りに激怒してユーゴとギリシャへの侵攻を軍に命じた。        1941年4月6日、ドイツ・イタリア・ハンガリーの枢軸同盟軍はユーゴへ       の侵攻を開始し(他にブルガリアとルーマニアが出撃基地を提供)、ユーゴ軍を       圧倒して12日には首都ベオグラードを陥落させた。ユーゴ軍は10日にクロア       チアが翌日にはスロベニアがそれぞれ独立を宣言するなど内部の結束が崩れあっ       けないまでに17日に枢軸国に無条件降伏を申し入れた。王と政府は国外に脱出       して独立の回復を図るが1945年に枢軸国から祖国を解放した新政府は王家の       帰国を否定した。        アレクサンダル1世(1929〜1934)        ペータル2世(1934〜1941)          ドイツ第三帝国(1934〜1945)        1933年の全権委任法でナチスの一党独裁を成立させたヒトラーは翌年にヒ       ンデンブルク大統領が死去すると国民投票で国家元首の大統領職と政府首班の首       相職を兼ねた総統に就任した。第三帝国とは過去にドイツにあった神聖ローマ帝       国とカイザーのドイツ帝国の次ということでナチスが自分達が支配する体制をそ       う呼んだことからきているが、他にもドイツ語の第三というdritteには未来とい       う意味があるらしい。        1939年のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発、当初は優勢に戦いを進       めていたドイツ軍だが、戦線が地中海やロシアに拡大するにしたがい勢いも鈍り       最終的には敗北してしまった。        アドルフ・ヒトラー(1934〜1945)        カール・デーニッツ(1945)          ユーゴスラビア連邦(1945〜2003)        共和制ユーゴは時期によって正式国名が変わるためここではユーゴ連邦で統一       する。第2次大戦中にパルチザンを率いて枢軸国から祖国を解放したヨシップ・       ブロズ・チトーは、ユーゴにまで支配の手を伸ばそうとするソ連と義絶して独自       の社会主義政策を推し進めた。1953年1月14日に初代大統領に就任したチ       トーは東西どちらの陣営にも属さない非同盟路線でユーゴの国際的地位を高める       ことに成功した。        チトーは不安定なユーゴの結束を維持するための努力も惜しまなかった。民族       間の摩擦が紛争に発展しそうになると自ら現地に赴いて説得したり、不満を解消       することに熱意を注いだ。そのためチトーが存命中は大規模な民族紛争が発生す       ることはなかった。        だが、1980年にチトーが死去するとカリスマ的指導者を失ったユーゴ連邦       は少しずつ崩壊へと向かっていった。チトー亡き後のユーゴには有力な後継者が       なく、連邦を構成する国家と自治州の1年ごとの持ち回りで連邦大統領を務める       ことになったが、1年では有効な政策は打ち出すことができず大統領に就任した       人達は連邦の維持よりも自国の利益を優先させた。こうして次第に連邦制と他民       族に対する不信感は増していき、80年代末からの東欧革命の余波でユーゴ共産       主義者同盟の一党独裁が終焉を迎えると連邦を繋ぎ止める最後の綱は失われた。       そして、一党独裁の放棄から2年が経過した1991年、ついにユーゴ連邦は崩       壊へと歩みだした。        ユーゴ連邦の金融や財政の権限強化を盛り込んだ新連邦構想がセルビアを中心       に持ち上がると経済的負担が高まると考えたスロベニアは1991年6月25日       にユーゴ連邦からの独立を宣言した。同時にクロアチアも連邦からの離脱を宣言       して連邦の維持に固執するセルビアと対立した。翌年の3月3日にはボスニア・       ヘルツェゴビナも独立を宣言、スロベニア紛争とクロアチア内戦で反セルビアに       傾いていたEC諸国の承認を受けた。すでにマケドニアも独立していたユーゴ連       邦はボスニアに侵攻するがすでに国連加盟を果たしていた同国への武力行使は国       連加盟国への侵略と見なされた。ユーゴ連邦軍は撤退するがセルビア人主体の彼       等は軍を離れボスニアのセルビア人勢力と合流してクロアチア人とムスリム勢力       との内戦を始めた。民族浄化と呼ばれる大量虐殺も生じたボスニア内戦はNAT       O軍の介入という事態も招き1995年12月14日のパリ和平協定で終結した。        一連の独立でユーゴを構成する国家はセルビアとモンテネグロだけとなってし       まった。そして2003年2月5日、遂にユーゴという国名も消滅し「セルビア       ・モンテネグロ」と変わった。2006年6月3日にはモンテネグロも独立して       ユーゴスラブによる統一国家の夢は潰えた。        ヨシップ・ブロズ・チトー(1945〜1980)        ソロボダン・ミロシェビッチ(1997〜2000)        ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000〜2003)          ドイツ民主共和国(1949〜1990)        第2次世界大戦で敗北したドイツは戦後、連合国によって分割統治された。そ       のうち西側連合国が管理していた西半分はドイツ連邦共和国として、ソ連が管理       していた東半分もドイツ民主共和国として独立を回復した。時は東西の対立が表       面化していた時期で分割されたドイツは東西冷戦の最前線となった。1961年       にはベルリン経由で市民が西ドイツに脱出するのを阻止するため東西ベルリンが       封鎖され西側への通路は完全に閉ざされた。やがて東西ベルリンの境界には壁が       建設され“ベルリンの壁”として東西冷戦の象徴となった。        経済的には東欧社会主義国の中でも発展していて社会主義の優等生と呼ばれて       いたが、西には大きく水を空けられており80年代になると西との経済的・自由       的な格差に国民の不満が高まるようになった。89年からの東欧革命で他の東欧       社会主義国が相次いで民主化されるとホーネッカー政権の強い締め付けに不満を       持っていた市民はハンガリー経由でオーストリアに入国し、そこから西ドイツに       行けるのではないかと考えた。当時、西側への旅行は許されていなかったが社会       主義国へのそれは許可される可能性があった。しかし、東ドイツからハンガリー       には秘密警察にも睨まれず合法的に入国できてもハンガリーからオーストリアに       はハンガリーのパスポートがなければ難しかった。脱出してきた人達はそのこと       をハンガリー・オーストリア国境で気づき国境には越境を求める東ドイツの市民       で溢れた。        こうした事態にハンガリーでは彼等を支援する動きが現れピクニック事件と呼       ばれる東ドイツ市民の西への脱出劇が始まった。ハンガリー政府も陰でこっそり       支援していたが、東ドイツとの関係悪化を心配して当初ほど手を差し伸べること       はしなかった。ハンガリーの首都ブダペストやチェコスロバキアのプラハの西ド       イツ大使館などでは脱出してきた東ドイツ市民で溢れるようになり、両国政府と       西ドイツ政府は協議の結果彼等に西ドイツのパスポートを与えて西ドイツに行け       るように手筈を整えた。ハンガリー政府も方針を転換して東ドイツ市民に国境を       解放した。東ドイツ政府はハンガリーと西ドイツの政府に抗議したが、市民の西       への脱出を防ぐことはできなかった。国内でも旅行の自由化や民主化を求めるデ       モが頻発してホーネッカー政権は退陣に追い込まれた。東西冷戦の象徴でドイツ       分断の象徴でもあったベルリンの壁も1989年11月9日に撤去された。        ベルリンの壁の崩壊で東欧社会主義体制は一挙に崩壊に向かった。チェコスロ       バキアでは平和的に民主化がなされ、ルーマニアでは革命でチャウシェスク政権       が倒された。1989年12月3日にはマルタで東西冷戦の終結が宣言された。       そして1990年10月3日、誰もが予想しなかったほどの短期間で東西ドイツ       は再び一つの国として統一された。        ヴィルヘルム・ピーク(1949〜1960)        ヴァルター・ウルブリヒト(1960〜1973)        フリードリヒ・エーベルト(1973)共和制ドイツ国初代大統領の息子さん        ウィリー・シュトフ(1973〜1976)        エーリッヒ・ホーネッカー(1976〜1989)        エゴン・クレンツ(1989)        マンフレート・ゲルラッハ(1989〜1990)        ザビーネ・ベルクマン=ポール(1990)          リビア王国(1951〜1969)        リビアの英字表記Libyaはギリシャ神話にでてくるポセイドンの愛人のリビュエ       のこと。古代ギリシャ世界ではエジプト以西の北アフリカ沿岸をリビアと呼んで       いた。1911年から12年の伊土戦争でイタリアがリビアの統治権を獲得する       が、第2次世界大戦の敗北で支配を放棄した。晴れて他国の支配を脱したリビア       は1951年に国連決議で連合王国として独立するが1963年に連邦制は廃止       されている。        1969年9月1日、かねてより王制に懐疑的だったムアマール・カダフィと       その同志がクーデターを起こし、トルコに滞在していた国王を退位させた。        イドリス1世(1951〜1969)          ベトナム共和国(1955〜1975)        インドシナ戦争が共産主義勢力の勝利に終わろうとするとアメリカは東南アジ       アへの共産主義の浸透を食い止めようとベトナム南部に反共国家を成立させた。       すでにベトナムは共産主義のベトナム民主共和国とフランスの傀儡であるベトナ       ム国に分裂しており、反共国家のベトナム共和国は後者に取って代わるモノだっ       た。以後20年間ベトナムは分裂状態が続くが、南ベトナムではクーデターが勃       発するなど政情は不安定でカトリック優遇政策で仏教徒の反感を買うなど民衆の       支持も得られなかった。そのため南ベトナム政府はアメリカの援助で辛うじて存       続している有様でベトナム戦争に敗北したアメリカが手を引くと北ベトナムの攻       撃を防ぎきることができず崩壊した。        ゴ・ディン・ジエム(1955〜1963)        ズオン・バン・ミン(1963〜1964)        グエン・カーン(1964)        ファン・ハク・スー (1964〜1965)        グエン・バン・チュー(1965〜1975)        チャン・バン・フォン(1975)        ズオン・バン・ミン(1975)再任          ザイール共和国(1971〜1997)        1965年にクーデターでコンゴの実権を掌握したモブツ・セセ・セコが19       71年に国名をザイールと変更し、革命人民運動の一党独裁を敷いた。1990       年に大統領の満期を終了するが、三選を禁止した憲法を無視して以後も大統領の       地位に留まった。しかし、1996年のツチ族に対する政府軍の攻撃をきっかけ       に内戦が勃発するとルワンダ・ウガンダ・ブルンジなどの支援を受けたコンゴ・       ザイール解放民主勢力連合に首都キンシャサを制圧され政権は崩壊した。        モブツ・セセ・セコ(1971〜1997)          中央アフリカ帝国(1977〜1979)        1965年にクーデターを起こしてダッコ政権を倒し翌年に大統領に就任した       ボガサは1972年に終身大統領となり、1977年12月4日に皇帝ボガサ1       世と称して2500万ドルを費やした盛大な即位式を挙げた。旧宗主国のフラン       スはこれを承認して援助を続けるが、アフリカ有数の極貧国家にも関わらず国家       予算の2倍の費用を使って即位式を挙げたり、外国から国賓を招いたりするなど       したため経済は赤字続きでそれを立て直そうにも粛清のため有能な人材が不足し       ていては有効な手段はとりようがなかった。1979年に帝政に反対する学生デ       モを武力で鎮圧して400人の死者が出るとフランスもボガサを見限り、支援者       を失ったボガサが新しい友人を探しにリビアを訪問したのを機にフランス軍がク       ーデターを起こして帝政の廃止を宣言した。        ジャン=ベデル・ボカサ(1977〜1979)
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