東国独立


 
 
       東国は朝廷による支配がもっとも遅れた地域である。そのため東国は経済圏を
      西国とは別にし、朝廷に依存することなく自立することができた。しかし、朝廷
      は残る東北(日本を東西に分類した場合、東北も東国になると思う)の征服に乗
      り出すと東国から搾取を始めた。朝廷からの圧政、疲弊する農村、東国の人たち
      は自分たちの郷を守るために立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
【武士の誕生と反乱】 【鎌倉幕府 ― 独立の達成】 【承久の乱 ― 独立の危機】
    【武士の誕生と反乱】     天平15年の墾田永年私財法は班田収受法の失敗で大きく減少した国家財政を補うために発    布された。開墾した田畑は自分の私有地となるため貴族や寺社、やがては地方豪族や有力農民    もこぞって原野の開発を押し進めた。こうして全国にできた私有地を“荘園”と呼び、税の負    担も軽いことから多くの農民も公地を捨て荘園に隷属していった。     荘園は個人の私有地であったが、朝廷への納税義務はあった。だが、荘園領主の多くはその    納税を拒むようになり、自分たちの荘園を守るために部下達を武装させた。これが武士の発祥    である。     荘園領主の武装化に対抗して朝廷は地方役人である国司の権限を強化、実力で徴税を行おう    とした。そのため国司と郡司(開発領主などの地方豪族)、有力農民は激しく対立し、それが    武力衝突に発展することもあった。     冒頭で述べたように東国の人々は朝廷から重い負担を背負わされていることに大きな不満を    抱いていた。国司と土着の勢力の争いが東国で頻発したのも、この重い負担に加え国司の横暴    があったためで、豪族の中には群盗と呼ばれる集団を組織して各国の政庁である国衙を襲撃さ    せる者も現れた。また、国司の命令で群盗を討伐する豪族もいた。おもしろいのは前まで国家    の鎮圧対象だった豪族が逆に国家の側(検非違使や追捕使)に立って反乱分子を征伐するケー    スがあることで、こういった同じ豪族が群盗になったりそれを鎮圧する側になったりという例    は珍しいことではなかった。     こうした関東の武士団でとりわけ勢力の強かったのが平氏である。平氏は周知の通り桓武天    皇の曾孫高望王が臣籍に降下したことで始まる。高望王は寛平元年に従五位下の位を与えられ、    さらに上総介に任じられ上総国に赴任した。介は国司の次官である。といっても、親王勅任国    である上総は国司に親王が任命される。しかし、親王が現地に赴くことはあり得ず介は事実上    の長官であった。高望王はそのまま上総に住みつき、その子らは上総・下総・常陸等の介やそ    の下の掾に着任して勢力を伸ばした。     関東に勢力を扶植(全域ではないが)した平氏だったが、一族の結束は強くはなかったよう    で高望王の息子良持が死去するとその遺領をめぐって良持の子将門と良持の兄弟が争いを始め    た。最初のうちは身内同士の内紛であったが、ある事件をきっかけに朝廷を驚愕させる大乱に    発展した。平将門の乱である。     将門が朝廷に反旗を翻したのは全くの偶然であった。当時の最高実力者である藤原忠平に仕    えたことがある将門は謀反を企てなければ朝廷の役人として地位が保証される身分である。そ    れが一転して決起に及んだのは敵対する従兄弟の貞盛が常陸介藤原維幾に匿われていたからで    あった。     伯父達との戦闘に一応の終止符を打った将門であったが、貞盛は討ちもらしてしまった。貞    盛は当初将門に敵対するつもりはなかったが、叔父達の説得に折れ反将門の陣に身を置くこと    になった。最初は不本意だった貞盛だったが、朝廷での出世を夢見る彼にとって将門との戦い    に負けるわけにもいかず執拗に将門に抵抗した。     天慶2年、常陸の藤原玄明が将門を頼ってきた。玄明は税を滞納した咎で常陸介維幾から追    われていた。頼られたら匿う将門は玄明も庇護した。常陸介からは玄明を差し出すよう要請さ    れたが、将門は国司の方に非があるとして要請を拒否したばかりか、1000の兵を率いて常    陸国衙に向かった。     この時点では将門に叛意はない。話し合いをするだけだ。だが、国衙軍は武力で対峙した。    前述したとおり、将門の宿敵貞盛は常陸国衙に匿われていた。おそらく、貞盛が大将を唆した    のだろう。国衙軍は3000、将門軍は1000、これだけの兵力差があれば将門を討てると    思ったのだろう。一方、将門も敵陣に貞盛がいることに気づいた。貞盛には恨みがある。前年、    将門は朝廷から謀反の嫌疑を掛けられたが、それは貞盛が将門を讒言したからだ。     憎き貞盛を目にして将門の感情は一気に臨界点に達した。それは兵士達にも伝わり彼等は3    倍の敵に向かっていった。この勢いに国衙軍は敗走してしまい、将門軍は国衙に乱入した。藤    原維幾は捕虜となり国印と印鎰は奪われた。貞盛は運良く逃げることができた。11月21日    の出来事であった。     理由がどうあれ朝廷の役人である介を捕虜にして国印までも奪ったことは朝廷への謀反とさ    れても仕方のないことであった。将門も覚悟を決め決起することにした。彼は皇族の血統であ    ることを理由に東国の王になることを宣言したのである。戦の天才である将門は関東の朝廷方    を駆逐して関八州のほぼ全域を支配した。     関東諸国の国司を追放した将門は新たに国司を自分で任命した。これは朝廷権力の完全な否    定であった。その任命式の時、その場にいたある女が自分は八幡大菩薩の使いで将門に帝位を    授けると言った。これを本気にしたのか将門は天皇が死後につける諡名である諡号(桓武とか    清和とか村上とか)を自分でつけ自ら親皇と称した。そして、王城建設を宣言し、大臣などの    位や官職を定めたとされる。ここに東国は朝廷の支配から切り離されたのである。     朝廷が将門の反乱を知ったのは12月2日であった。常陸国府が将門に攻め落とされたとい    う情報である。そして将門が朝廷からの独立を企てていると知るに及び、公家達は混乱状態に    陥った。中央政府から独立を企てるなど継体21年(継体は天皇。当時は年号はなかった。西    暦で527年)の筑紫磐井の乱以来なかったことである。大規模な軍事行動にしても坂上田村    麻呂の蝦夷征討から100年以上が経過しており、貴族らは対応の仕方がわからずに右往左往    した。さらにほぼ同時期に瀬戸内で藤原純友が決起したことも混乱に拍車をかけた。     東西同時に反乱が発生したことで将門と純友が示し合わせて決起したという話もある。有り    得ない話だが、当時の公家達は本気でそう考えていた。そのため朝廷は両者の連携を断とうと    純友に従五位下を授けて懐柔を図ろうとした。この事でわかるように朝廷はまず将門の乱の鎮    圧を優先させたのである。     しかし、討伐軍の出発は翌年の2月8日と乱勃発から2ヶ月が経過してからだった。出発が    遅れた理由は討伐軍の大将が決まらなかったからである。当初は参議の藤原元方が任命されよ    うとしたが、元方が藤原忠平の息子を副将にするように要求したので我が子を危険にさらした    くない忠平は元方の大将就任を取り消した。代わりに大将になったのは参議の藤原忠文であっ    た。     やっと出発した討伐軍だったが、結局は間に合わなかった。乱は討伐軍が到着する前に終わ    っていたのである。     朝廷は1月11日に地方豪族では一生望めない高位と土地を恩賞にして将門追討令を発して    いた。この通達は効果覿面で関東の豪族はこぞって朝廷側となった貞盛に味方したのである。    それまで逃げ回っていた貞盛も妻が将門の兵に陵辱されたのを知るに及んで覚悟を決めた。だ    が、戦がうまくない貞盛は単独では勝てないとして藤原秀郷を味方に引き入れた。     藤原秀郷は藤原氏の流れを汲む名門だが、彼の頃は無官の地方豪族に過ぎなかった。秀郷は    かなりの乱暴者だったようで朝廷の鎮圧対象にもなっていた。彼自身も朝廷を嫌っていたので    当初は将門に味方するつもりだった。だが、対面したときの将門の大将とはおもえない振る舞    いを見て愛想をつかし貞盛に合流したのである。     貞盛と秀郷の軍4000は2月1日、下野を出発して下総に向かった。将門は川口村で連合    軍と交戦したが、彼が率いていたのは1000人ほどだったので奮戦空しく敗退した。関東独    立国の王にしては少ない兵数だが、これは将門の兵が各地に分散されていたからである。その    数は8000人ほどだったという。しかし、将門の劣勢を見てそれらの兵が援軍に向かうこと    はなかった。貞盛軍に参加した兵にしても将門の領民であった者が多かったのである。つまり    これが現実なのである。     味方から見限られた将門はそれでも400の兵でもって2月14日、石井営所で貞盛・秀郷    軍に決戦を挑んだ。圧倒的に不利な状況だったが、風をうまく利用できる将門はこの時も風の    流れをうまくつかんで風上から矢を放った。将門は弱い貞盛軍に攻撃を集中させた。80人ほ    どが射殺され貞盛軍は敗走した。これに連動して秀郷軍も崩れたため将門は軌跡の逆転勝利を    おさめるかにみえた。だが、逃げる敵を追撃する将門を1本の矢が貫いた。それまで将門に味    方していた風が突如流れを変えたのである。矢は風によって速度が増し、将門のこめかみに命    中したのである。将門は即死した。彼は配下の兵だけでなく風にまで裏切られたのである。     将門の死で乱は終結した。残党は来着した討伐軍に徹底的に鎮圧された。将門の首は都でさ    らされたが、その後空を飛んで関東に戻ったという。     乱を見事に鎮圧した平貞盛はかねてからの念願である五位上に叙された。彼の血統である平    清盛によって平氏は天下を支配するが、その出発点はまさにこの瞬間であろう。     平将門の乱は鎮圧されたが、東国の独立の気風は失われることがなかった。乱が終結した8    8年後に将門の叔父の孫である平忠常が安房守を焼き殺して決起した。この乱は2年後に源頼    信に鎮圧されたが、その結果関東における平氏の勢力は衰え源氏が勢力を増すことになった。     【鎌倉幕府 ― 独立の達成】     平忠常の乱以後、東国では東北の前9年・後3年の役があった他は大きな紛争はなかった。    一方、京では平治の乱に勝利した平貞盛の子孫清盛が権勢を振るっていた。ライバルである源    義朝を倒した清盛はその息子である頼朝を伊豆へ流した。     伊豆に流された頼朝は伊東祐親、ついで北条時政の監視下で読書などして暮らしていた。関    東は義朝の勢力圏だったためそこに住む武士は義朝の家臣だった者も多数いたが、大庭景親の    ように義朝が敗死すると平氏へ鞍替えする者もいた。     清盛がなぜ頼朝の流刑地に伊豆を選んだのかはわからない。源氏の地盤だった関東にその棟    梁の息子を追放したら、源氏の残党がそれをよりどころに決起するかもしれないではないか。    追放するなら源氏の勢力が及ばない西国にすべきだった。案の定、頼朝は決起してしまった。 だが、京で生まれ育った頼朝には関東に自前の兵力はなかった。関東の源氏勢力を統括して    いたのは長兄の悪源太義平である。その義平は平治の乱で処刑されており、源氏をまとめられ    る人物は頼朝しかいなかった。しかし、伊豆に流されるまで一度も東国に来たことがない頼朝    にいくつもの東国武士団を統率する能力があるのだろうか。それに関東には平氏に忠誠を誓う    勢力もあった。清盛もそうしたことを知っていたので頼朝を東国に追放したのかもしれない。     ところが、流人である頼朝を監視する役目の北条時政が頼朝と通じて平氏打倒の計画を練り    始めたのだ。時政は娘婿となった頼朝の挙兵のために周辺から協力者を募って300人の軍勢    を組織した。北条氏は清盛と同じ平貞盛を先祖とする平氏一門である。その北条氏でさえ平氏    に反旗を翻したのはそれだけ平氏政権に対する不満が高かったということだろう。     治承4年8月17日に挙兵して伊豆目代山木兼隆を討ち取って幸先良いスタートを切った頼    朝だったが、23日の石橋山の合戦で大庭景親らの軍勢に敗れて這々の体で安房に逃れた。だ    が、平氏打倒を訴えた以仁王の令旨という大義名分と源氏の嫡流という血筋は短期間で戦力を    回復させた。頼朝は10万に膨れあがった軍勢を率いて10月6日に鎌倉に入った。     平氏の天下は平氏以外の武士と平氏に利権を奪われた公家の反発を買うことになった。その    うち武力を持たない公家の反発はどうということはなかったが、以仁王と源頼政の決起以降平    氏に対する武士の反乱は東国だけでなく、平氏の地盤とされた西国でも発生していた。平氏と    してはこれらの反乱を早期に鎮圧したいところだが、この頃の日本は飢饉による米の不作で大    規模な軍事行動がとりにくい状況にあった。さらに平治の乱から20年が経過して平氏に実戦    経験が豊富な武将が少なくなってきたことも平氏がなかなか政権を安定させることができない    原因の一つだろう。彼等は自分たちの天下に慣れきったため武士としての心構えを失っていた    のである。     それでも頼朝の反乱は早期に鎮圧する必要があった。関東をほぼ制圧した頼朝が西進してく    ることは明らかだからである。清盛は孫の維盛や弟の忠度を将とする追討軍の派遣を決定した。     両軍は治承4年10月20日に富士川で対峙したが、頼朝軍が甲斐源氏の武田信義らの合流    で兵力が上がっているのに対し、平氏は地方豪族の離反で予定された兵力を集められない状態    だった。当然、平氏方の士気は最低で水鳥が羽ばたくと敵の夜襲と察知して一目散に逃げると    いう醜態をさらしてしまった。兵力を損じたわけではないが、これ以後平氏が東国に軍を派遣    することはなかった。     富士川の合戦に勝利した頼朝だったが、勢いに乗じて上洛することはせずに関東の残る敵勢    力の排除にあたった。     なぜ、頼朝が上洛に踏み切らなかったのかというと大義名分がなかったからである。朝廷を    掌握する平氏は幾らでも天皇の勅令が得られるのに対し、頼朝には以仁王の令旨しかなかった。    しかも、以仁王は朝廷から反逆者扱いされていたのである。頼朝は朝廷が軍の派遣を要請する    まで待つしかなかった。     上洛を躊躇した頼朝に代わって京にためらいなく進軍したのは木曾義仲であった。義仲は寿    永2年7月28日に京に入ったが、生まれてからずっと山奥で暮らしていた義仲とその軍勢は    すぐに朝廷と京の人々の反感を買ってしまった。     朝廷のトップである後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じるが、頼朝はただでは動かなかった。    彼は東国の支配権を要求したのである。法皇は東国の独立につながるその要求を認めたくはな    かったが、頼朝以外に義仲を討てる勢力はなかったので渋々要求を受けいれた。     東国の独立をほぼ達成した頼朝は軍勢を上洛させたが、自らは鎌倉に留まった。頼朝自身は    京に行きたかったのだろうが、配下の武士(以後、御家人と呼称する)がそれに賛成しなかっ    たのである。     頼朝は幼少時を華やかな都で育った。それが田舎に追放されたのである。彼に都に帰りたい    と思う心があっても不思議ではなかった。彼にとって京の都は故郷である。だが、御家人達に    とっては頼朝を迂闊に京に行かせて朝廷に籠絡されることがあっては、東国の独立が水泡に帰    すという危惧があった。     御家人達の危惧は杞憂ではなかった。義仲を倒し一ノ谷で平氏を撃破した源義経が後白河法    皇から検非違使・左衛門少尉に任じられたのである。頼朝は配下の者に自分の許しなく官位を    授かることを禁じていた。もし、その事を許せば頼朝の権威は朝廷に侵害される恐れがあるか    らだ。義経も勝手に任官してはいけないとわかっていたはずで、恐らく最初は固辞しただろう。    だが、若い義経に法皇から何度も勧められても断固して拒否するほどの意志の強さはなかった。    法皇からしつこく勧められたから兄上もわかってくれるだろうと甘く見ていたのかもしれない。    しかし、義経の行為は頼朝よりも法皇の決定が優先するということを示すものだったのである。    これが朝廷内なら問題はない。だが、義経が属する東国政権は朝廷からの独立を目指していた    のである。頼朝は激怒して義経を平氏追討軍から除名した。     義経の件はただ彼が勝手に官位をもらってそれで兄貴に怒られたというだけのものではなか    った。しつこく法皇に勧められたとしても義経に頼朝の禁令を破らせたのは、それだけ官位を    もらうという魅力が大きかったからである。平清盛にしても力だけで天下を支配したわけでは    ない。太政大臣という朝廷の最高位についたからこそその支配に正当性を持たすことが出来た    のである。頼朝ももし上洛して朝廷から官位をもらえるとしたら喜々としてそれを受け取った    だろう。御家人達はそれを恐れたのである。     東国を独立させたい頼朝とそれを阻止したい後白河法皇。法皇は義経を頼朝の対抗馬にしよ    うといろいろと彼に便宜を尽くした。義経はまたもやそれを素直に受けいれたのである。壇ノ    浦で平氏を滅亡させた義経は有頂天になってなにも考えなかったでのある。     一方、頼朝も法皇の企みは見抜いていた。もはや彼にとって義経は存在そのものが問題にな    っていた。そもそも頼朝に義経を弟として親しく感じる気持ちは全くなかった。それどころか    義経が奥州に勢力を持つ藤原秀衡の郎党を従えていたことに警戒感を抱いていたのである。頼    朝は秀衡が郎党を義経につけた理由を察していた。やがて来るであろう頼朝との全面対決に備    え敵方の状況を探るためである。     頼朝は義経の排除を決意する。こうなっては義経も兄と対決する道を選ぶしかなかった。自    分の思惑どおりになった法皇は義経に頼朝追討の院宣を出してやった。だが、義経の下に参集    する武士はいなかった。頼朝の力は法皇の想像を超えていたのである。挙兵するだけの兵を集    められなかった義経は西海に脱出しようとしたが、嵐のために断念するしかなく以後はどこぞ    へと姿をくらました。     義経の挙兵が期待はずれに終わった法皇は頼朝が抗議のために大軍を上洛させると、今度は    頼朝に義経追討を命じたのである。無論、それだけで頼朝が納得するはずもなく、法皇は義経    一行を捜索するためとして全国に守護・地頭を設置することを認めさせられた。頼朝の力を削    ごうとした法皇はかえって頼朝の影響力を増加させてしまったのである。まさに「策士、策に    おぼれる」であった。結局、法皇は東国の独立を阻止することは出来ず、鎌倉幕府の成立を許    してしまったのである。     【承久の乱 ― 独立の危機】     これまで東国の独立とかいってきたが、それは朝廷の介入を受け付けないという意味で日本    という国から独立するといった意味ではない。朝廷の内部・外部の違いはあるが、平清盛も源    頼朝も天皇や院を頂点とした枠組みから離れるようなことはしなかった。朝廷から制止された    奥州征伐を強行したことでもわかるように頼朝は自分の意に添わない命令はそれが勅令であろ    うと院宣であろうと聞く耳を持たなかった。それでいて朝廷を鎌倉幕府の上に位置づけていた    のである。幕府の長である征夷大将軍は天皇から任命されるものであり、天皇から認められな    ければ幕府の存在は有り得ないのである。     なんともややこしい話である。一応、朝廷を上の存在であると認めているが、その命令は聞    かないというのだから。それでも鎌倉殿も御家人達も天皇に対する崇拝の念は抱いていた。     鎌倉幕府の支配が及ぶ地域は主に東国で、西国には朝廷の支配が及ぶ地域もあった。つまり    は二頭政治である。鎌倉殿が自分に従う武士を御家人として配下に組み入れる一方、朝廷も北    面の武士や西面の武士といった武士達の集団を組織していった。     後白河法皇の死後、朝廷を掌握した後鳥羽院はこの状態に終止符を打つため、承久3年5月    に挙兵した。2年前に鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺され、幕府はその主を失うという非常事    態に陥っていた。     後鳥羽上皇は全国に鎌倉幕府を実効支配する執権・北条義時を追討する宣旨を出した。これ    に応じたのは畿内・西国の御家人や北条氏の専横に反発している一部の関東御家人で、その数    は1700騎に及んだ。皮肉なことに御家人主体の鎌倉幕府を打倒するのに、その御家人の力    に頼らざるを得なかったのである。     上皇挙兵と義時追討令は幕府を動揺させた。誰もが上皇に弓引くことを躊躇った。そんなこ    とすれば朝敵となってしまう。策謀家である義時も例外ではなく全ては上皇の思惑どおりに推    移するかに見えた。まさに鎌倉幕府存亡の危機であった。     この危機的状況を打破したのが頼朝未亡人の北条政子であった。彼女は御家人達に頼朝の恩    を思い起こさせ、さらに幕府が成立する以前の苦しい生活も思い出させた。あんな時代に戻り    たいのか。たとえ上皇の命令であっても、それが道理に合わないものであれば聞く必要はない。    彼女の言葉に奮起した御家人達は10万騎以上の大軍で上洛して、上皇方の軍勢を撃破してい    った。幕府軍は6月16日に入京し、上皇方の掃討を開始した。三浦胤義は西山で自害、山田    重忠は嵯峨で自害、後藤基清・大江能範・五条有範・佐々木広綱は六波羅で処刑された。     乱の首謀者である後鳥羽上皇もただではすまなかった。院は隠岐に流罪となった。武士が上    皇を島流しにするなど前代未聞である。義時は上皇を流罪にすることで公家に幕府の権力を見    せつけると共に、御家人達に朝廷への精神的な劣等感を払拭させたのである。     乱に敗れた朝廷はその所領を大きく削られ幕府に対抗できるだけの武力を持つことが出来な    くなった。一方、鎌倉幕府は没収した土地に御家人を配置して支配を一挙に拡大させた。よう    やくにして幕府はその安定化に成功したのである。
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