活躍の場も得られず散った悲運の最強戦艦
戦艦大和





      排水量64,000t 全長263m 全幅38.9m 吃水10.4m
      出力150,000hp 速力27kt 航続距離16kt/7,200浬
      兵装 45口径46cm3連装主砲3基9門  60口径15.5cm3連装
         副砲4基12門 40口径12.7cm連装高角砲6基12門 25
         mm3連装機銃8基24挺 水偵搭載数7機
      乗員 約2,500名
      同型艦 武蔵 信濃(空母に改装) 111号艦(建造中止)
 
 
 
   大和級戦艦は軍縮条約脱退後、初めて建造された戦艦である。最強の攻撃力に最高の防御力と
  竣工時は世界最強の戦艦であった。
   大和は46cm砲搭載艦としては小柄なサイズで、軽量化のためにヴァイタルパートという機
  関部・弾薬庫といった攻撃を受けたら大損害を被る重要部分にのみ集中して装甲を施す「集中防
  御方式」を採用している。これは列強海軍の標準的なやり方である。
 
   現在では日本海軍といったらこの大和を挙げる人が大半だろうが、戦前から戦時にかけては日
  本海軍の象徴といえば長門であった。一般の国民には大和の存在は公表されていなかったのだ。
  大和に関する事は機密である物が多く、主砲の46cm砲も表向きには40cm砲と紹介されて
  いた。これは世界で初めて40cm砲を搭載した長門に対抗して米英海軍がすぐに40cm砲搭
  載艦を建造したという苦い経験からきた処置である。そのため、アメリカ軍は最後まで大和の主
  砲は40cmと思いこんでいた。
 
   冒頭で大和は最強戦艦だと述べたが、彼女(軍艦はすべて女性のようだ。だって姉妹艦とかい
  うでしょ)にも弱点がある。まず、兵器としての革新性がなかった。東大工学部出身の技術大尉
  は大和を設計した平賀造船中将を「彼の計画は牢固たる古典主義である」と厳しく批判した。彼
  から見た大和はポスト・ジュットランド型戦艦の拡大版に過ぎなかったのである。
   新型戦艦といっても大和に新しい技術が導入されたわけではない。46cm砲にしてもすでに
  「八八艦隊計画」でその採用が決定された事があるのだ。
 
   さて、大和の弱点・欠点を挙げるとしたら速力と防御力なのだが、速力に関しては問題はない
  と思う。大和の速力27ktは列強の最新型戦艦では最低であるが、大和と同時期に竣工した米
  海軍のノースカロライナ級は28kt、その改造型のサウスダコタ級は27ktと大和と変わら
  ないのである。その次に登場したアイオワ級は33ktと戦艦では最高の速力を発揮したが、彼
  女の場合は日本の金剛級高速戦艦やドイツのシャルンホルスト級巡洋戦艦に対抗するために速力
  を上げなければならなかったにすぎず、その次に計画されたモンタナ級は28ktに抑えられて
  いる。アメリカ海軍は戦艦の速力はそれくらいで充分だと考えていたと見るべきだろう。
   味方の空母部隊を護衛するには30ktの速力が必要だという人もいるが、元々大和は護衛の
  ために造られたのではない。それに、空母のすべてが30ktを超える速力を有していたわけで
  もなかった。太平洋戦争緒戦の主力空母である加賀は28.3ktだったし、後半に活躍した準
  鷹は25.5ktしかなかったのだ。大和でも護衛は務まるはずである。
   速力に関係することで問題なのが大和の運動性能である。軍艦の運動性能は速力と出力排水量
  比で表されるが、大和はこの分野でも列強の新鋭戦艦に劣っている。運動性能が悪いと敵の攻撃
  を回避できなくなる。
 
   最後に防御に関する欠点・弱点だが、これは速力や運動性能以上に深刻な問題である。集中防
  御方式を採用している大和には当然非装甲部というのがある。この部分はどう守るかというと内
  部をいくつかの区画に分け、それを隔壁で防御することで敵の攻撃で生じた浸水を防ぐのだが、
  大和はその隔壁が軽構造だったため浸水が隔壁を突き破る可能性があった。シブヤン海での武蔵
  の沈没はこれが原因である。関係者は「主要部分の重量を削ってでも非装甲部を強固にすべきだ
  った」と戦後反省したという。
   その非装甲部にまして危険な部分が皮肉にも防御が集中して成された主要部にあった。大和に
  は4基の副砲が搭載されている。舷側に2基、中心線上に2基である。問題は中心線上に配置さ
  れた2基である。
   大和の副砲は元々、最上型軽巡の主砲で同型が重巡に改装される際に不必要になったので大和
  級と大淀型軽巡に回ってきたものである。速力重視で装甲がほとんどない軽巡の主砲だからその
  装甲厚は25mmしかない。それがよりによって弾薬庫の真上に設置されたのだ。
   1941年5月24日にドイツ戦艦ビスマルクに撃沈された英戦艦フッドのように弾薬庫に直
  撃を喰らったら例えそれが戦艦であっても瞬時に爆沈しかねないのである。だからこそ列強海軍
  は弾薬庫を徹底して防御しているのだ。最悪の場合、大和は巡洋艦クラスの主砲の直撃でもそれ
  が副砲に命中したら弾薬庫に誘爆して沈没する可能性があった。
 
 
 
   大和は1937年のB計画で建造が計画され、1941年12月16日に竣工した。竣工当初
  は艦隊決戦の主役として活躍が期待されたが、日本が望む艦隊決戦は太平洋戦争では発生せず大
  和はその巨体を持て余すしかなかった。42年2月12日に連合艦隊旗艦になった大和は5月2
  9日に初陣としてミッドウェー作戦に参加したが、連合艦隊司令官座乗の大和は最前線に出るこ
  とはなく6月5日に機動部隊が惨敗を喫するとさっさと日本に引き返した。続くガダルカナル戦
  から始まるソロモン・ニューギニア攻防戦でも大和はトラック島まで進出したが、そこから南に
  行くことはなく最新型故の快適な艦内環境(冷暖房完備!)から過酷な戦場に向かう水雷戦隊の
  将兵から「大和ホテル」と揶揄されている。
   実戦に投入される機会もないまま時代は頑迷な日本海軍でも海戦の主役は空母であると認識せ
  ざるを得ないものとなり、大和以下長年帝国海軍の主力として君臨してきた戦艦はその座を空母
  に譲ることになった。
   空母の下におかれた大和は1944年6月19日のマリアナ沖海戦、10月24日のレイテ沖
  海戦を戦ったが制空権を敵に掌握されていては満足に活躍することもできず、姉妹艦の武蔵が撃
  沈されている。
   レイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅して組織的な行動能力を喪失したが、大和は存在し続けた。し
  かし、米軍が沖縄に侵攻してくると大和は唯一動ける戦艦として沖縄への特攻を命じられた。総
  数1,457隻の大部隊が待ち構える沖縄への特攻。それは最早作戦ではなく集団自殺であった。
  なぜなら海軍上層部の誰もが特攻作戦の成功も大和の帰還も有り得ないだろうと認識いていたか
  らだ。案の定、大和は1945年4月7日、九州坊ノ岬沖で敵艦載機の空撃によって撃沈された。
  戦後、大和は海底から引き揚げられ宇宙戦艦に改造されイ○カンダルに向かった。あれっ?
 
 
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