帝国海軍最後の作戦
坊ノ岬沖海戦
― Battle of Boh-no ―

 第1遊撃部隊(伊藤整一中将) 戦艦 大和(有賀幸作大佐) 第2水雷戦隊(古村啓蔵少将) 軽巡:矢矧(原為一大佐)  第41駆逐隊(吉田正義大佐) 冬月(山名寛雄中佐) 涼月(平山敏夫中佐)           第21駆逐隊(小滝久雄大佐) 朝霜(杉原与四郎中佐) 初霜(酒匂雅三少佐) 霞(松本正平少佐)  第17駆逐隊(新谷喜一大佐) 磯風 (前田実穂中佐)浜風(前川万衛中佐) 雪風(寺内正道中佐)  捷1号作戦の敗北で帝国海軍は米軍に対し組織的な反撃を行う力すら失った。残された艦艇 にできることは物資を輸送することぐらいだったが、それすらも敵機と潜水艦の跳梁で思うよ うにはいかなかった。空母信濃・雲龍、戦艦金剛など連合艦隊の主力である軍艦も年末までの 2ヶ月という短い期間に潜水艦によって撃沈されている。                  1944年に有条件降伏の可能性すら消滅した枢軸国陣営は1945年になっても戦争をや めようとしなかった。それは連合国が枢軸国に無条件降伏を要求していたからだ。この要求は 結果的に戦争を無駄に長引かせ、将来の敵であるソ連に得させるだけの効果しかでなかった。  何とかして連合国に一矢報いたい。枢軸国はそれを願ったが、それすらもできないほど彼等 は弱体化していた。ヨーロッパの西部戦線では前年からのドイツのアルデンヌ攻勢の失敗が濃 厚になり、東部戦線ではポーランドのワルシャワが陥落したほか、ハンガリーのブダペストも 包囲されその陥落は時間の問題となっていた。そして、ついにソ連軍はドイツ本国に侵攻して きたのである。                                     一方の太平洋戦線も日本軍が各地で撤退・玉砕を繰り返していた。米軍は本土に迫ってきて おり、日本軍はその撃退にせまられた。                          1945年3月、大本営は南西諸島への空襲が激化したことから敵の目標は沖縄であると断 定した。さらに大本営はその日時が4月の第1週であること、その前に九州への大規模な空爆 が実施されることも正確に予測していた。その予測どおり米軍は3月18日から九州南部への 空襲を実施した。同方面に展開していた海軍の第5航空艦隊はこれの撃滅を期したが、21日 までの戦闘で戦果は空母フランクリンを大破させただけだった。フランクリンは一時放棄も考 慮されたが結局本土に帰還した。その後、戦線には復帰していないので撃沈に等しい戦果を挙 げたことになるのだが、日本の近海で損傷を負わせた空母にとどめを刺せないぐらい日本の航 空戦力は弱体化していたのだ。事実、第5航空艦隊はこの戦闘で保有機数が55機にまで激減 してしまった。                                     九州の日本軍航空戦力を壊滅させた米第58機動部隊は23日から上陸作戦の事前攻撃を開 始した。これに対し、大本営は「天号」作戦を発動し5航艦に出撃を命じた。ちなみに5航艦 には陸海軍協定で陸軍の第6航空軍と第8飛行師団も指揮下に入っていた。前述したように5 航艦は壊滅しているので海軍は訓練部隊の投入も決定した。                 訓練部隊まで投入したのは海軍が沖縄を最終決戦地としていたからだ。燃料がなくなれば戦 力が無きに等しくなる海軍はそうなる前に最後の決戦に挑もうとしたのだ。となれば水上部隊 も出撃を免れない。当初、連合艦隊は水上部隊の出撃は戦果が全く期待できないとして消極的 だったが、航空隊だけに戦わせて良いのかという感情論に押され投入に踏み切った。最後まで 反対した草鹿参謀長も鹿屋に出張している間に決められてはどうしようもなかった。彼はその 決定を第2艦隊の伊藤中将に伝える役目まで背負わされた。伊藤中将は草鹿中将の説明に黙っ ているだけだったが、草鹿中将が「一億総玉砕の魁となっていただきたい」と言うと初めて頷 いたという。無謀な出撃命令に憤慨していた第2艦隊の参謀達も伊藤中将から「我々は死に場 所を与えられたのだ」と言われると「それなら行きましょう」と納得した。戦局の悪化を肌で 感じる彼等にとってもう作戦の成否はどうでもいいことなのか。               こうして第2艦隊の出撃が決定したのだが、その戦力は戦艦大和と1個の水雷戦隊のみであ る。日本にはまだ無傷の戦艦や空母、巡洋艦が残っていたが燃料が欠乏していて動かせないの だ。第2艦隊が出撃する際も燃料は片道分だけとされており、日本の燃料不足の深刻さがわか る。もっとも、実際には小林連合艦隊機関参謀が呉工廠軍需部の島田少将と相談して帳簿外の タンクの底の燃料をかき集めて艦隊に供給していたのだが。                 片道燃料の話からわかるように連合艦隊司令部は大和以下の部隊が二度と戻って来ないだろ うと認識していた。それどころか沖縄に到着する前に捕捉され全滅するだろうと思っていたの だ。もう日本軍には冷静に作戦を練る余裕は消え失せていたのである。            さて、アメリカ軍は大和をどうみていたのだろうか。ご周知と思うが、日本海軍は大和の存 在を国民には隠すなど機密保持を徹底していた。最大の特徴である46センチ砲も94式40 センチ砲と公表していた。無論、アメリカも日本が誇る新鋭戦艦の情報を得ようとしたが、戦 争初期は大和乗組員以外の日本海軍の将兵には大和の実態がほとんど知る機会がなく、機密保 持も厳重だったため捕虜から情報を仕入れることは困難だった。暗号解読にしてもわかるのは その動向ぐらいだけで詳しい性能までは暴き出せない。学者や専門家を集めて大和を組織的に 多角的な解析をしても、1942年では総排水量57,000トンとか小型潜航艇を搭載して いるとかいった実際とは異なる情報しか得られなかった。                  だがそれも1943年になると大和が46センチ砲を9門搭載しているなど、実像に近い情 報が捕虜から得られるようになった。これは大和が竣工してから時間が経過したためその情報 を知る者が増えたからである。さらに、1944年2月4日にはVMB(海兵隊爆撃機中隊) −254のPB4Y−1(コンソリデーテッドB−24)がトラック泊地を偵察して未知の大 型戦艦を撮影している。これは言うまでも無く大和のことで、この画像を解析することでアメ リカ軍はさらに詳しく大和の実像に迫ることが出来た。しかし、最終的には大和を40センチ 砲9門搭載の42,000〜48,000トン戦艦であると結論付けている。これは日本が同 盟国のドイツに伝えた大和の要目が論拠となっているが、アメリカも日本がドイツに本当のこ とを伝えていないことは見抜いていた。だが、日本に6万トンを超える46センチ砲搭載戦艦 が建造できるわけが無いという人種差別も加味された過小評価によって戦後になるまで大和の 実態を把握することができなかったのである。                       1944年10月、ついにアメリカ軍と大和が相まみれる時が来た。レイテ沖海戦である。 この戦いでアメリカ軍は5回にわたる空撃を実施して大和の同型艦武蔵を葬った。しかし、爆 弾・魚雷それぞれ20発も喰らいながら数時間も浮かび続けたそのタフネスぶりには舌を巻い た。並の戦艦なら数隻は撃沈できる数である。アメリカ軍はこれを武蔵の両舷に満遍なく魚雷 を命中させてその浸水で艦のバランスが保てたからと分析して、残る1隻をやるときは片舷に 雷撃を集中させるべきだとした。また、日本軍の対空火力に関する検証も行われたが、日本海 軍の主力対空火器である96式25ミリ高角機銃は威力も発射速度も射程も命中率も短いので さほど脅威ではないと評価された。高角砲も同様でVT信管を実用化しているアメリカ軍と比 較すればその効果には雲泥の差があった。                         1945年4月1日、アメリカ軍はアイスバーグ(氷山)作戦を発動して沖縄への上陸侵攻 戦を開始した。これに対し、日本軍は侵攻が確実となった3月26日に天1号作戦を発動し、 特攻機を連日出撃させた。さらに4月6日には菊水1号作戦を発動させた。いずれも敵艦隊へ の特攻作戦だが、その囮として大和以下の水上艦による海の特攻部隊も編成された。      4月6日午後4時、水上特攻部隊は徳山沖を発って沖縄に向かった。しかし、この艦隊の動 きは暗号解読によって既にアメリカ軍の知るところとなっていた。すぐに潜水艦部隊に注意す るようにとの指令が出され、午後8時過ぎにハックルバックとスレッドフィンが大和部隊を発 見してハワイの太平洋方面潜水艦隊司令部に報告を打電している。2隻の潜水艦は雷撃戦の用 意もしたが、ロックウッド太平洋方面潜水艦隊司令官の命令が無ければ敵艦隊への攻撃は禁止 されており追尾するだけに止まった。それも午後10時過ぎに見失ってしまった。その1時間 後に、攻撃の事前許可制を解除する連絡が両潜水艦に届けられたがもう手遅れだった。     潜水艦からの急報を受けたアメリカ軍は敵艦隊の迎撃準備をした。日本のリバイアサンは1 隻、残りは軽巡と駆逐艦である。敵ではない。しかし、日本人は追い詰められたら何をするか わからないため迎撃には慎重を期した。沖縄周辺に展開するアメリカ第5艦隊にはミッチャー 中将の第58任務部隊とモートン・デイヨー少将の第54任務部隊があったが、第5艦隊のス プルーアンス提督は沖縄地上戦の状況も鑑みて、デイヨーの戦艦部隊に迎撃をさせることにし た。                                          命令を受けたデイヨーは小躍りして喜んだ。やはり戦艦は戦艦と戦ってこそその真価を発揮 する。さっそく彼はTF54から第3戦艦隊(アイダホ、テネシー、ニューメキシコ=第5艦 隊旗艦)と第4戦艦隊(コロラド、メリーランド、ウエストヴァージニア)に重巡ポートラン ド、ミネアポリス、タスカルーサ、サンフランシスコ、軽巡バーミンガム、モービル、ビロク シー、駆逐艦21隻で第1戦艦戦隊を編成した。                      一方、高速機動部隊を指揮するミッチャーも大和を沈めることを企てていた。彼は第38任 務部隊の指揮を執っていたときに武蔵を撃沈している。それならば大和を戦艦部隊に譲ってや っても良さそうなのだが、彼は大和も撃沈することで日本のリバイアサンのダブルスコアを狙 っていたのだ。彼のTF58は4個の任務群で構成されるが、ラルフ・E・デビソン少将の第 2任務群は補給のため攻撃には参加できない。それでも空母12隻、艦載機900機以上とい う大部隊でミッチャーは日本艦隊撃滅には半数の艦載機で十分として、残り半数を艦隊防空と 近接支援に残しておく事にした。スプルーアンス提督はミッチャーがこのような計画を立てて いることは知らされていなかった。                            4月7日黎明、TF58は日本艦隊の捜索を開始した。午前8時23分、空母エセックス艦 載機が日本艦隊を発見、午前10時ごろにもマーチンPBMマリナー飛行艇2機がこれを発見 している。                                       報告を受けたミッチャーは攻撃隊の発進を命じた。午前10時、第3任務群の軽空母バター ンからアベンジャー雷撃機9機と500ポンド爆弾2発搭載のヘルキャット戦闘機12機が発 進、5分後にエセックスからヘルダイバー急降下爆撃機12機とアベンジャー15機に100 0ポンド爆弾を搭載したコルセア戦闘機5機が発進、その5分後、第1任務群の軽空母ベロー ウッドからアベンジャー6機とヘルキャット8機が発進、5分後に第3任務群の空母バンカー ヒルからヘルダイバー10機とアベンジャー14機、写真偵察型のヘルキャット2機に500 ポンド爆弾搭載のコルセア15機、軽空母キャボットからアベンジャー9機とヘルキャット1 0機が発進、2分後に第1任務群の空母ベニントンからヘルダイバー11機、アベンジャー1 0機、ヘルキャット6機(内、1機は写真偵察型のF6F−5P)、コルセア1機(飛行甲板 が一杯で格納甲板にあった残りのコルセアがエレベーターで上げられなかった)、最後に8分 後の午前10時25分に第1任務群の空母ホーネットからヘルダイバー14機、アベンジャー 14機、ロケット弾搭載のヘルキャット16機、軽空母サンジャシントからアベンジャー8機 とヘルキャット7機が発進した。第1次攻撃隊の発進を見届けたミッチャーは参謀長のアーレ イ・アルバート・バーク代将(セントジョージ岬沖海戦で日本軍に圧勝)に「親父に聞いてく れ。貴方がやるか、それとも私がやるか、と」と命じた。攻撃隊が既に発進している状況で何 を今更と親父=スプルーアンス提督はせっかくのチャンスを逃すことになるだろうデイヨーの 心中を察しつつも「君があいつ(大和)をやれ」とアメリカ海軍史上最短とされる命令文を送 達した。                                        続いて午前10時45分、第4任務群の空母イントレピッドからヘルダイバー14機、アベ ンジャー12機、コルセア16機、空母ヨークタウンからヘルダイバー13機、アベンジャー 13機、ヘルキャット20機、軽空母ラングレイからアベンジャー7機、ヘルキャット12機 の第2次攻撃隊が発進、これが作戦行動中の敵国艦隊に対してアメリカ海軍が放った最後の攻 撃隊となった。                                    大和攻撃に参加したアメリカ空母航空群                     TG1                                    CVG−17(ホーネット)F6F×71 SB2C×15 TBM×15    CVG−82(ベニントン)F6F×35 F4U×35 SB2C×15                 TBM×15                   CVLG−30(ベローウッド)F6F×25 TBM×9           CVLG−45(サンジャシント)F6F×25 TBM×9         TG3                                    CVG−83(エセックス)F6F×36 F4U×36 SB2C×15                 TBM×15                   CVG−6(ハンコック)F6F×72 SB2C×12 TBM×10     CVG−84(バンカーヒル)F6F×10 F4U×63 SB2C×15                 TBM×15                  CVLG−29(キャボット)F6F×25 TBM×9            CVLG−47(バターン)F6F×24 TBM×12           TG4                                    CVG−9(ヨークタウン)F6F×73 SB2C×15 TBM×7     CVG−10(イントレピッド)F6F×6 F4U×66 SB2C×15                  TBM×15                 CVLG−23(ラングレー)F6F×25 TBM×9          ※攻撃に参加した部隊のみ。()内は母艦名。TG=任務群、CVG=空母航空群  CVLG=軽空母航空群                           大和の対空見張り用1号3型レーダーが南方70q付近に接近する敵編隊を探知したのは7 日の午前11時07分だった。攻撃は12時30分から開始された。攻撃は3次にわたり行わ れた。その経過は次の通り。                              第1攻撃 午後12時30分頃開始                          戦艦大和 前部と後部の副砲付近にベニントンの爆撃隊が投下した1000ポンド         半徹甲弾が命中、火災発生                             ホーネットの雷撃隊が左舷に魚雷4本を命中。続いてエセックスの攻撃         機が1000ポンド通常弾を投下、艦橋の左舷前方甲板に命中、艦内部         に火災発生、副砲の火薬庫続いて2番主砲の火薬庫に誘爆               第1波攻撃で大和は右舷に5度傾斜。注水で回復。速力22ノットに低         下。続いて第2波                                 バンカーヒルとエセックスの雷撃隊が右舷と左舷から魚雷を投下、艦中         央部に18本命中                                 後部艦橋付近に爆弾命中、3本マスト折れる                     第2波攻撃で大和は左舷に23度傾斜                   駆逐艦浜風 爆弾1発命中。推進機破壊。航行不能後、右舷中央部に魚雷1本が命中         し轟沈                                駆逐艦朝霜 機関の故障で艦隊から落伍、敵機に発見され爆弾3発が命中撃沈された。        総員戦死                               軽巡矢矧 雷爆撃で航行不能                            駆逐艦涼月 爆撃で艦首切断、行方不明                      第2攻撃 午後1時22分開始                            戦艦大和 右舷艦首と艦尾に魚雷5本命中、速力18ノットに低下           駆逐艦霞 爆弾2発命中、航行不能                        第3攻撃 午後2時頃開始                              戦艦大和 右舷前部、中央部、左舷後部に魚雷6本命中                     2時20分、総員退艦命令。23分左舷に傾き転覆。20秒後、2番3         番主砲の火薬庫が爆発、船体を真っ二つに切断、艦橋部も破壊。続いて         ボイラー室のボイラーが水蒸気爆発。戦死者は伊藤中将以下2498名         生存者276名                                  大和への命中弾は日本側記録で魚雷10〜12本、爆弾3〜5発、米側         記録で魚雷33〜35本、爆弾38発と開きがある             軽巡矢矧 魚雷7本、爆弾12発命中轟沈                      この他に駆逐艦霞と磯風も撃沈された。生き残った3隻は生存者を救出した後、8日に佐世 保に帰還した。行方不明になった涼月も8日の午後に帰還しているが、艦首部がなくなったた め後進で戻ってきた。特攻部隊の戦死者総数は3722名、一方のアメリカ側の損害は、戦死 14名・負傷者4名・被撃墜10機であった。                       大和の沖縄特攻は大艦巨砲主義の終焉であった。真珠湾奇襲に始まりマレー、レイテと戦艦 は航空機に抗しえない事例が相次いだ。ミッドウェーでは空母部隊が全滅するとなす術無く引 き返しているし、ソロモン戦ではトラック環礁で待機しているしかなかった。有効に活用され たのは旧式ながら高速を発揮できる金剛級のみであった。そのためであろうか、太平洋戦争で 戦艦はまったくの役立たずで航空機に対しては無力な存在であったという評価がされるように なったのは。しかし、戦艦は決して無力ではなかった。戦艦と航空機の最後の戦いとなった沖 縄特攻は大和1隻に309機中117機が攻撃して航空機が圧勝したが、それでも60機近く が被弾しているのだ。さらに、半年近く前のレイテ沖海戦ではアメリカ軍航空機隊は5回も攻 撃を繰り返して撃沈できたのは武蔵1隻のみであった。この時にアメリカ艦隊を指揮していた ハルゼー提督は「明確な意志を持って進撃する水上部隊を航空攻撃のみで撃破するのは極めて 困難である」と述懐している。要するに戦艦だろうと航空機だろうと相手の防御力を上回る攻 撃力を有しなければ撃破するのは難しいということだ。もし、沖縄特攻で大和だけでなく長門 や榛名、伊勢・日向(そういやこの時点で姉妹艦がすべて無事なのは伊勢級だけだな)の戦艦 や、巡洋艦・駆逐艦が参加していたら果たして航空攻撃のみで撃滅できただろうか。不可能で はないだろうが、最後のおいしいところを戦艦部隊に持っていかれたかもしれない。それは今 となってはわからない。ただ、あの戦闘が戦艦が真価を発揮できる最後の機会であったことは 間違いない。                                    
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